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江戸時代の遊郭の楼主に生まれ変わったので遊女の待遇改善に努めつつ吉原遊廓の未来も変えようと思う  作者: 水源
寛文2年(1662年)

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331/363

品川の飯盛旅籠の目玉はやはり新鮮な魚介料理だな、まずは安い値段で人を集めようか

 さて。


 品川の公許遊郭化に伴い、俺は飯盛旅籠の一つを買い取り、品川の街で働く飯盛女たちの生活改善に取り組んできた。


 寝る場所を整える。


 食事を改善する。


 病気になれば治療を受けさせる。


 客に無茶をさせない。


 働く女たちが、少しでもまともに生きられる場所を作る。


 そうしたことは、もちろん必要だ。


 だが――。


 いくら働く環境を改善しても、そもそも客が来なければ話にならない。


 店に金が入らなければ、女たちの待遇を改善し続けることもできないからだ。


「結局のところ、まず客を呼ばなきゃ始まらないんだよな」


 俺は朝の品川の通りを眺めながら、小さく呟いた。


 潮の匂いが風に混じっている。


 沖のほうからは船頭たちの声。


 街道では旅人たちの足音。


 荷車の車輪が地面を軋ませる音。


 海と街道。


 二つの流れが、この町にはある。


 吉原とはまるで違う。


 そして――。


 こちらには海がある。


「だったら、海を使わない手はないよな」


 品川には、その日の朝に揚がった魚がある。


 江戸の町へ運ばれていく前の、新鮮な魚介がある。


 それならば。


 品川にしかできない目玉を作ればいい。


 ◇◇◇


「急げ急げ! 溶かすなよ!」


「へい!」


 朝から男たちの声が飛び交っていた。


 今日のために。


 冬の間に凍らせ、氷室で保存していた氷を運び込んでいる。


 藁やおがくずで包まれた氷。


 それを人足たちが慎重に担ぎ、旅籠の中へ運び込んでいく。


 夏の陽射しは容赦がない。


 扱いを間違えれば、せっかくの氷もただの水になる。


 氷は、この時代には決して気軽に使えるものではない。


 だからこそ価値がある。


「氷そのものが客寄せになるんだからな」


 俺は運び込まれる氷を眺めた。


 冷たいもの。


 夏。


 そして新鮮な魚。


 この三つを組み合わせれば、面白い商売になる。


 市場から、魚が次々と運び込まれてきた。


 カツオ。


 イサキ。


 アジ。


 チダイ。


 シタヒラメ。


 アオリイカ。


 そしてサザエ。


 まだ魚の目には濁りが少ない。


 身には張りがある。


 アオリイカの身は、透き通るようだった。


 貝の殻を開けば、潮の匂いがふわりと広がる。


「やっぱり、これが品川の強みだよな」


 海が近い。


 だから魚が早い。


 この時代には冷蔵庫などない。


 魚を遠くまで運ぼうとすれば、どうしても鮮度は落ちる。


 だから干物にする。


 塩漬けにする。


 保存できる形へ加工する。


 それが普通だ。


 生の魚を、美味い状態で食える場所は限られている。


 海の近く。


 魚が揚がる場所の近く。


 だからこそ、品川には価値がある。


「市場が近いってだけで、立派な商売の武器になる」


 俺は運び込まれた魚を眺めながら頷いた。


 ◇◇◇


 もちろん。


 今の時代に魚を生で食うといっても、現代人が思い浮かべる刺身とは少し違う。


 魚の身を切る。


 皿へ盛る。


 そして酢味噌。


 酢生姜。


 からし酢。


 そうしたものと一緒に食べる。


 膾(なます)の文化が、まだ強い。


「刺身といえば醤油、って時代じゃないんだよな」


 俺はチダイを眺めながら呟いた。


 現代なら。


 刺身といえば醤油。


 わさび醤油。


 それが当たり前だ。


 だが、今は寛文二年。


 醤油そのものは存在している。


 しかし、後の時代のように、江戸の庶民が当たり前に良質な濃口醤油を使う時代ではない。


 大阪方面から運ばれてくる下り醤油は高価だ。


 関東でも醤油造りは始まっているが、後世の銚子や野田のように、大量生産された濃口醤油が広く普及するのはまだ先の話になる。


 つまり。


 今なら逆に、醤油そのものが特別感になる。


「美味いものがあるなら、使えばいい」


 俺はそう考えている。


 実際、野田ではすでに醤油造りが行われている。


 味噌造りから取れる豆油(たまり)を利用した醸造も知られている。


 後世には、この関東の醤油文化が大きく発展していく。


 ならば。


 その流れを、少し早めてもいい。


「品川で、新しい食べ方を広める」


 それも悪くない。


 俺は買い付けた醤油を見た。


 そして。


 わさびも用意させる。


 酢味噌。


 からし酢。


 酢生姜。


 それに。


 わさび醤油。


 客には、好きな食べ方を選ばせる。


 美味いと思えば、その食べ方が広まっていく。


 商売とは、案外そういうものだ。


 ◇◇◇


 今日。


 品川の旅籠では、特別な催しを行う。


 ――定額刺身食べ放題。


 その知らせは、少し前から吉原と品川で配っている。


 引き札。


 現代でいうところのチラシのようなものだ。


 紙へ大きく。


『品川 三河屋』


『新鮮魚介 定額にて食べ放題』


『本日限り』


 そう書いて、人通りの多い場所で配らせた。


 かわら版へ広告を折り込む。


 そんな現代のような方法は、まだ使えない。


 だから。


 人が配る。


 人が声を上げる。


「本日、品川三河屋にて特別催し!」


「新鮮な魚介を、定額にてお楽しみいただけます!」


「好きなだけ食えるぞ!」


 人の声で噂を作る。


 最初は半信半疑だった者もいた。


 だが。


 食べ放題。


 しかも、新鮮な魚介。


 その話は、思った以上に人々の興味を引いた。


 ◇◇◇


 品川の旅籠へ戻ると、すでに店の中は朝から慌ただしかった。


 桶が並ぶ。


 氷が砕かれる。


 冷たい水が張られる。


 そこへ魚や貝、イカが運ばれていく。


 魚を氷へ直接押しつけるのではない。


 冷やしながら、なるべく鮮度を保つ。


 魚屋たちの包丁が忙しく動いていた。


 とん。


 とん。


 とん。


 鱗が取り除かれる。


 腹が開かれる。


 血が洗い流される。


 新鮮な身が、次々と切り分けられていく。


「おい、そっちのアジはまだ切るな!」


「へい!」


「チダイは客が来る直前だ! 身が乾く!」


「わかりました!」


 厨房には、いつもとは違う緊張感があった。


 今日の料理は。


 ただ作れば終わりではない。


 客が来る。


 食べる。


 皿が空く。


 また切る。


 また盛る。


 客の流れを止めずに、魚の鮮度も落とさない。


 それが今日の勝負だった。


 そして。


 大皿が運ばれてくる。


 その上へ。


 カツオ。


 イサキ。


 アジ。


 チダイ。


 シタヒラメ。


 アオリイカ。


 サザエ。


 色とりどりの魚介が盛られていく。


 赤。


 白。


 銀色。


 透き通るようなイカの身。


 殻を開いた貝。


 その横には。


 酢味噌。


 からし酢。


 酢生姜。


 そして。


 俺が用意させた醤油と、わさび。


 普段の品川では、なかなか見られない光景だった。


 客が好きなものを選ぶ。


 好きな食べ方で食う。


 そして。


 好きなだけ食う。


 価格は――。


 五百文。


 ◇◇◇


「五百文か……」


 帳面を眺めながら、俺は改めて考える。


 安い。


 とは言えない。


 庶民が毎日の飯代として使う金ではない。


 腹を満たすだけなら、もっと安く済む。


 蕎麦を食う。


 飯を食う。


 そういう普段の食事なら、五百文も必要ない。


 だから。


 これは日常の飯ではない。


『今日は少し贅沢をする』


 そういう時の金だ。


 現代で言えばお高い焼肉や料亭で食べてみるみたいな感じだろう。


 だが――。


 今日用意したものも、日常の飯ではない。


 朝に揚がったばかりの魚介。


 カツオ。


 イサキ。


 アジ。


 チダイ。


 シタヒラメ。


 アオリイカ。


 サザエ。


 七種類。


 しかも。


 氷で冷やしながら鮮度を保っている。


 氷を作る。


 保存する。


 運ぶ。


 魚を買う。


 運ぶ。


 料理人を使う。


 皿を並べる。


 調味料を用意する。


 客には好きなだけ食わせる。


「まともに計算したら、普通なら五百文じゃ済まねえな」


 俺は苦笑した。


 一種類だけ食って帰るなら。


 五百文は高い。


 だが。


 チダイを食う。


 アジも食う。


 イカも食う。


 サザエも食う。


 カツオも食う。


 そうやって一品ずつ頼めば、そのたびに銭が積み上がる。


「腹いっぱい食えば、得をしたと思わせる」


 俺は帳面を閉じた。


「少し食っただけなら、ちょっと高いと思わせる」


 その境目が大事だ。


 客は店へ入る前に考える。


 五百文。


 安くはない。


 だが。


『新鮮な魚を好きなだけ食える』


 そう聞けば、話は変わる。


 武士なら、同僚を誘って来るかもしれない。


 商人なら、取引先との付き合いに使うかもしれない。


 少し金回りのいい町人なら。


『一度くらい試してみるか』


 と思うだろう。


 そして。


 一度店へ入ってしまえば、五百文以外の商売もできる。


 酒を飲む。


 追加の料理を頼む。


 泊まる。


 そして――。


 遊女を呼ぶ。


 刺身食べ放題そのものでは、ほとんど儲からなくてもいい。


 いや。


 今日に限っては、赤字でも構わない。


 これは。


 料理を売る商売じゃない。


「品川という場所を売るための商売だ」


 まず。


 品川へ来てもらう。


 そして。


「品川には面白い店がある」


 そう思ってもらう。


 一度来た客が、また来る。


 旅人が誰かへ話す。


 大名屋敷の奉公人が別の屋敷で話す。


 商人が取引先へ話す。


 噂が広がる。


『品川に面白い旅籠ができたぞ』


『五百文で魚を好きなだけ食わせる』


 引き札を何千枚配るより。


 実際に客が、


『面白かった』


『うまかった』


 と言ってくれるほうが強い。


「五百文は、刺身の値段じゃない」


 俺は帳面を閉じた。


「客を品川へ連れてくるための広告費だ」


 だから。


 今日だけは赤字を恐れない。


 客が十人来て終わるより。


 百人来て。


 百人が、


『面白かった』


 と思って帰るほうがいい。


 そのための五百文。


 安すぎない。


 だが。


 この内容なら、明らかに得。


 そして。


『一度くらいなら払ってみるか』


 と思える値段。


 俺にとって五百文とは、そういう価格だった。


 ◇◇◇


 昼が近づく頃には、店の前へ人が集まり始めていた。


「本当に五百文なのか?」


「魚を好きなだけ食えるらしいぞ」


「品川でそんなことをやる旅籠があるのか?」


 ざわざわと声が広がっていく。


 暖簾が揺れた。


 一人。


 二人。


 客が入ってくる。


 そして。


 次々と店の中へ案内されていった。


 俺は主人へ尋ねる。


「今日の予約はどんな感じだ?」


 主人は帳面を抱えたまま答えた。


「はい」


 一瞬。


 嬉しそうに口元を緩める。


「座敷は、すべて埋まっております」


「そうか」


 俺も笑った。


「それはよかった」


 だが。


 主人の表情が、少し引きつった。


「ただ……」


「ん?」


「その中に」


 ごくり。


 主人が唾を飲み込んだ。


「薩摩藩藩主、島津光久様もいらっしゃいます」


「……なるほど」


 俺は少し考えた。


 薩摩藩の江戸屋敷は、このあたりからそう遠くない。


 吉原まで足を運ぶより、品川のほうが来やすい。


「そういうことかもな」


「そ、そういうことかもな、ではありません!」


 主人が声を裏返らせた。


「大藩の大殿様でいらっしゃいますよ!?」


「吉原じゃ親藩や譜代のお殿様も普通に客として来るぜ」


「それは……そうでしょうが……」


 主人は落ち着かない様子で周囲を見回した。


 失礼があればどうする。


 粗相があればどうする。


 そんな不安が顔に書いてある。


 俺は肩をすくめた。


「今後は大大名の藩主様が来ることだって増えるだろう」


「……」


「うまくやっていくしかない」


「わ、わかりました」


 島津光久。


 薩摩藩二代目藩主。


 島津忠恒――後の家久の子であり、猛将として知られる島津義弘の孫でもある。


 しかも。


 江戸生まれだったりする。


 そして薩摩は、面白い土地だ。


 米を作れる土地には限りがある。


 それに比べて、抱える武士は多い。


 石高だけでは家臣団を維持しにくい。


 だからこそ。


 薩摩は交易を利用してきた。


 琉球を経由した品々。


 外から入ってくる珍しい産物。


 そして、新しい収入源。


「……薩摩と繋がるのも、悪くないな」


 俺は小さく呟いた。


 今すぐ何かをするわけではない。


 だが。


 商売を考えるなら。


 遠い土地との繋がりは、それだけで価値がある。


 美味い魚を食わせて。


 まず顔を覚えてもらう。


 商売の縁なんてものは、案外そこから始まる。


「……まあ、まずは殿様に満足して帰ってもらうのが先か」


 ◇◇◇


 しばらくすると。


 一人の遊女が、少し足早に俺のところへやって来た。


「戒斗様」


「ん?」


「薩摩のお殿様が、戒斗様とお話をしたいそうであります」


「おう」


 俺は立ち上がった。


「わかった。今行くぜ」


 廊下を歩く。


 畳の上を足袋が擦る。


 向こうの座敷からは、客たちの笑い声が聞こえてくる。


「こっちのイカをくれ!」


「アジも残っているぞ!」


「酢味噌をもう少し!」


「その醤油ってのも持ってきてくれ!」


 店は完全に活気づいていた。


 いい。


 この賑わいだ。


 これが欲しかった。


 料理を食う客。


 酒を飲む客。


 笑う客。


 女と話す客。


 そのすべてが店の中にある。


 そして。


 その熱気が、いずれ品川の町へ広がっていく。


 俺は薩摩の殿様がいる座敷の前へ立った。


 障子の向こうには、普段とは明らかに違う空気がある。


 付き従う者たち。


 静かな緊張。


 だが。


 中からは、楽しそうな声も聞こえた。


 俺は一度、息を整える。


「三河屋楼主、戒斗」


 そして。


「失礼いたします」


 すっと障子を開けた。


 座敷の中へ視線を向ける。


 そこには、堂々とした男が座っていた。


 島津光久。


「うむ」


 光久が俺を見る。


「そなたが、この新しい楼主か」


「はい」


 俺は頭を下げた。


「見事な料理である」


「お褒めの言葉をいただき、誠にありがたく」


 光久の前には、大皿がある。


 すでに何種類もの魚介が食べられていた。


「特に」


 光久は箸で一切れの魚を持ち上げた。


「このチダイの刺身は見事であるな」


 口へ運ぶ。


 ゆっくりと噛む。


「そして、このわさび醤油というものも面白い」


「お気に召しましたか」


「うむ」


 光久は頷いた。


「魚の味を殺さず、それでいて香りが立つ」


 俺は笑みを浮かべた。


「この時期のチダイは、マダイよりうまいと言われることもございます」


「ほう」


「身の旨味が強く、今の季節ならではの味でございます」


「なるほどな」


 光久は、もう一切れ箸で取った。


「薩摩では、なかなかこういう食い方はせぬ」


「でしたら」


 俺は頭を下げる。


「品川へ来られた際には、また新しいものをご用意いたします」


「新しいもの?」


「はい」


 俺は少し笑った。


「海から来るものは、まだまだございますので」


 光久の目が細くなった。


「面白いことを言う男だ」


 その一言に、周囲の者たちがわずかに表情を動かした。


 俺は内心で笑った。


 気に入られた。


 まずは、それで十分だ。


「何より」


 光久が大皿へ目を向けた。


「旨味を逃さぬよう、丁寧に処置してある」


「ありがとうございます」


「それでいて安い」


 俺は少し困ったように笑った。


「流石に、毎回この価格は難しいところでございます」


「そうであろうな」


「ですが」


 俺は続けた。


「可能な限り、食べやすい価格にしていくつもりでございます」


「ほう」


 光久の目が少し細くなった。


「それは女に関しても、そうしてもらえるとよいのだがな」


 座敷の空気が、わずかに変わった。


「どうも吉原は堅苦しい上に、価格が高すぎる」


 なるほど。


 そこが本音か。


 俺は少し考えてから答えた。


「吉原にも安い店はございます」


「うむ」


「そして品川にも、高い店があってよいと考えております」


 ただし。


「同時に」


 俺は光久を見た。


「あまり堅苦しくなく、手頃な値段で利用できる店も必要かと」


 光久の口元がわずかに上がった。


「うむ」


「身分の高い方だけではなく、旅人や武士、商人にも利用していただける場所を作りたいと考えております」


「なるほどな」


 光久は酒を口へ運んだ。


「我ら薩摩隼人は、公家かぶれではないのでな」


 豪快な笑い声が座敷へ響いた。


「肩の凝らぬ場所のほうが性に合う」


「でしたら」


 俺は深く頭を下げた。


「どうぞ今後も、よろしくお願いいたします」


「うむ」


 光久は頷いた。


「贔屓にさせてもらうとしよう」


「ありがとうございます」


 そして。


 光久は、ふと俺を見た。


「戒斗」


「はい」


「薩摩には、江戸にはないものも多い」


「……ほう」


「琉球から入る品もある」


 その言葉に。


 俺は少しだけ目を細めた。


 なるほど。


 向こうも、俺をただの旅籠の主人として見ているわけではないらしい。


「機会がございましたら」


 俺は笑った。


「ぜひ、お話を伺わせていただきたく」


「うむ」


 光久は満足そうに頷いた。


 それだけだった。


 具体的な話は、まだ何もない。


 だが。


 商売の話というのは。


 最初から大きな契約で始まるとは限らない。


 美味い飯。


 面白い会話。


 そして。


 次に会う理由。


 まずは、それで十分だ。


 ◇◇◇


 座敷を出たあと。


 俺は内心で、小さく拳を握った。


 よし。


 とりあえず。


 薩摩の殿様の胃袋を掴むことには成功したようだ。


 品川には海がある。


 新鮮な魚がある。


 そして。


 吉原とは違う客層がいる。


 西国の大名。


 芝や高輪に屋敷を構える武家。


 旗本。


 街道を行き交う旅人。


 彼らに。


「遊ぶなら品川へ行こう」


 そう思ってもらえればいい。


 座敷の外からは、まだ客たちの賑やかな声が聞こえていた。


 魚を切る包丁の音。


 酒を注ぐ音。


 女たちの笑い声。


 客が皿を叩く音。


「こっちにもイカを!」


「まだ食えるぞ!」


「次はサザエだ!」


 そして。


 開いた障子の隙間から、潮風が静かに吹き込んでくる。


 魚の匂い。


 酢味噌の香り。


 酒の匂い。


 人の熱気。


 吉原にはない。


 品川だけの賑わい。


 俺は廊下から、その光景を眺めた。


 五百文。


 今日の刺身食べ放題だけを見れば、儲けは少ない。


 あるいは。


 赤字になるかもしれない。


 だが。


 それでいい。


 今日、ここへ来た客が。


『品川は面白い』


 そう思って帰ってくれれば。


 次は友人を連れてくる。


 その友人がまた誰かへ話す。


 店が増える。


 人が集まる。


 商売が生まれる。


 街が変わる。


「さて」


 俺は、もう一度店の中を見回した。


「次は、この街そのものを繁盛させていくか」


 品川には。


 まだまだ使える強みがある。


 海。


 街道。


 港。


 人の流れ。


 そして。


 江戸へ入る者と、江戸から出ていく者。


 すべてがここを通る。


「旅籠一軒を繁盛させるだけじゃ、もったいないよな」


 俺は笑った。


 品川という土地そのものを。


 もっと面白くする。


 人が来る理由を作る。


 金が落ちる場所を作る。


 そして。


「品川へ行けば、何か面白いことがある」


 そう思わせる。


 今日の五百文は。


 そのための最初の投資だった。


 品川には。


 まだまだ使える強みがある。


 そして俺には。


 それを商売へ変えるつもりがあった。

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