本格的に西洋リンゴ栽培をするためにネズミ対策を考えてみようか
さて。
揚屋の裏手の土地を買い取って作った、自家菜園も、気がつけばずいぶんと賑やかになってきた。
最初は、ちょっとした野菜を育てられればそれでいいと思っていた。
ところが一つ育ててみると、今度は別のものも試したくなる。
そうして少しずつ増やしていった結果、今では畑には葉物が並び、香草が風に揺れ、その向こうにはいくつかの果樹まで植わっている。
朝露に濡れた葉へ指を触れる。
ひやりとした感触。
しゃがみ込めば、湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
この感覚は、嫌いじゃない。
現代でも、自家菜園や農園を持つホテルやレストランは珍しくなかった。
そこで採れたばかりの野菜や果物を料理に使えば、それだけで客の印象に残る。
畑から採ったばかりの瑞々しい野菜。
枝から捥いだばかりの果物。
そういうものは、味だけじゃなく、その場そのものを客の記憶に残してくれる。
だから、この時代でも自家菜園を持つ意味は十分にある。
そんなことを考えながら、俺は一本の果樹の前にしゃがみ込んだ。
今、手入れをしているのは――セイヨウリンゴの木だ。
「……悪くないな」
枝を指先で確かめる。
まだ若い。
だが、幹はしっかりしている。
新しく伸びた枝にも瑞々しさがある。
この木が数年後、どんな姿になるのか。
そう考えると、少し楽しみだった。
もっとも。
果樹栽培なんて、俺の本来の専門ではない。
それでも、弁財天様のおかげなのか、ある程度のことなら何となく分かる。
少なくとも、前世で得た知識と目の前の木を照らし合わせれば、何をすべきかくらいは判断できる。
リンゴのような果樹は、穀物や野菜のように種を蒔けば親と同じものができる、というわけではない。
品種をそのまま増やすなら、接ぎ木が必要になる。
だから俺は、出島でオランダ人商人の手を借りて、珍しい異国のリンゴの枝を手に入れた。
この時代の日本ではまだ馴染みのない代物だ。
簡単に手に入るものじゃない。
だからこそ、何とかして枯らさないように増やしていく必要がある。
台木には、日本でも昔から栽培されているカイドウを使う。
台木を切る。
穂木の切り口を整える。
そして互いの形成層が、できるだけ広く触れ合うように合わせる。
少しでもずれれば失敗だ。
乾かしてしまっても駄目。
切り口を合わせ、縄でしっかり固定する。
きゅっ。
最後にもう一度、結び目を確かめる。
「……よし」
あとは、この木自身に頑張ってもらうしかない。
果樹というのは、気が長い。
野菜のように何週間かで収穫、というわけにはいかない。
それにリンゴには、もう一つ面倒なところがある。
自家不和合性だ。
自分自身の花粉や、同じ品種の花粉では受粉しにくい。
だから、花が咲く時期の近い別品種を近くに植えておく必要がある。
「一本あればいい、ってわけじゃないんだよな」
俺は隣に植えた別品種の木を見る。
花粉を受け持ってもらうための木だ。
手間はかかる。
だが、実をつけさせるためには仕方ない。
しかもリンゴは寒さには強い一方で、高温多湿にはあまり強くない。
その点では、今より冷涼なこの時代のほうが、少なくとも暑さという意味では多少条件がいい。
とはいえ、日本の気候がリンゴ向きかと言われれば、そう簡単には頷けない。
「津軽あたりのほうが、やっぱり育てやすいんだろうな……」
思わず遠くを見る。
だが、津軽で育てたとしても問題はある。
現代のような鉄道もトラックもない。
収穫した果物を遠くまで運ぶとなれば、船が頼りになる。
しかも果物は傷みやすい。
大量に育てても、消費地まで持ってくるだけで一苦労だ。
そもそも、この時代の果物は水菓子と呼ばれる嗜好品に近い。
米や麦のように、誰もが大量に必要とする食べ物ではない。
「……まあ、需要がないわけじゃないんだが」
江戸の町には、甘いものを欲しがる人間が大勢いる。
それに、珍しい果物そのものが価値になる。
だったら、少しずつでも育ててみる価値はある。
何年か先。
この木に、赤い実が鈴なりになっているところを想像する。
そう思うと、なかなか気分がいい。
――だが。
俺はふと、木の根元へ目を落とした。
小さな土の穴。
そして、根の近くには、かじられたような跡がある。
「……おいおい」
嫌な予感がした。
指で土を少し掘る。
根の表面に残る小さな傷。
「ネズミか」
リンゴの実だけじゃない。
ネズミは樹皮をかじる。
根もかじる。
若木なら、それだけで大きな被害になりかねない。
この時代なら、なおさらだ。
食料庫に入り込めば穀物を食われる。
畑では種や作物を荒らす。
果樹まで傷められたら、育てる苦労が水の泡になる。
「さて……ネズミ対策もしっかりやらんとな」
猫を飼うのも手だ。
だが、せっかくだ。
自然の力も借りるとしよう。
俺は畑の向こうに目を向けた。
その先には、小さな雑木林がある。
昼間は静かな場所だ。
だが夜になると、そこには別の世界がある。
「梟、来てくれないかな」
フクロウは夜行性だ。
ネズミなどの小型哺乳類を捕らえる。
畑の近くに住み着いてくれれば、かなり心強い。
しかも、フクロウは狩りがうまい。
木の枝に止まって、獲物が通るのをじっと待つ。
そして見つけると――音もなく飛ぶ。
羽ばたいているのに、ほとんど音がしない。
暗闇を滑るように近づき、鋭い爪で獲物を捕らえる。
鷹や鷲とは、また違う狩り方だ。
目もいい。
耳もいい。
暗闇の中でも音を頼りに獲物を探し、雪の下に潜ったネズミを捕らえることだってある。
「そりゃ、農家にとっちゃありがたい鳥だよな」
人間が農耕を始めれば、そこには穀物がある。
穀物があれば、ネズミが来る。
ネズミが増えれば、それを狙うフクロウも人の生活圏へ近づいてくる。
人間とフクロウの付き合いが古いのも、当然なのだろう。
縄文時代の遺物にも、フクロウを思わせる像や意匠が残されている。
長い年月をかけて、人間のそばで生きてきた鳥なのだ。
……とはいえ。
「日本じゃ、あんまり評判がよくないんだよな」
中国では、梟が母親を食べて成長するという俗説があり、不孝鳥と呼ばれた。
日本でも古くから、不気味な鳥として見られることがある。
源氏物語にも、フクロウは不気味さを感じさせる存在として登場する。
梟雄という言葉だってある。
親殺しから主君殺しへ。
そういう連想が重なれば、武家に嫌われるのも分からないではない。
「まあ、夜中にあの声を聞けばな……」
ホー……。
ホー……。
夜の林の奥から響いてくれば、知らない人間は不吉なものだと思ってしまうだろう。
だが、実際のところフクロウは人間を襲うことなど滅多にない。
むしろ人間にとって厄介なネズミを捕ってくれる。
ならば利用しない手はない。
「問題は、どうやって畑に来てもらうかだな」
フクロウは木の洞などを巣にする。
ならば、林の中にある大きな木を残しておけばいい。
だが――。
現代では、それだけではなく人工の巣箱を用意する方法もある。
ここで俺は、ふと思いついた。
「……巣箱、試してみるか」
この時代に一般的な方法というわけではない。
だからこそ面白い。
まずは止まり木を立てる。
そして、林の中に人工の巣箱もいくつか設置してみる。
住み着くかどうかは、梟次第。
上手くいかなければ、それまでだ。
「ま、駄目元でやってみるか」
巣箱作りを頼む相手は、いつもの親分だ。
しばらくして、木材を並べている親分のところへ顔を出す。
「今度は梟のための箱かい?」
「ああ。まずは止まり木を作って、それとは別に巣箱も試してみたい」
「梟を呼ぶのか?」
「畑のネズミ退治だ」
「なるほどなぁ」
親分は腕を組んで考える。
それから木材を手に取った。
「しかし、お前さんも次から次へと妙なもんを考えるな」
「働いてもらう相手は多いほうがいいだろ?」
「違ぇねえ」
親分が笑う。
俺もつられて笑った。
それから、ふと思い出す。
「そうだ。そろそろ鈴蘭や茉莉花の見受け金も、必要な額に近づいてきたんだ」
「……おお」
親分の目が変わった。
「そりゃあ、もう一踏ん張りじゃねえか」
「ああ。だから、ここでいっちょ頑張ってくれ」
「くっ……」
親分は拳を握る。
「鈴蘭ちゃんのためにも、頑張らねえとな!」
「そういうことだ」
話が決まる。
止まり木の材料。
巣箱の大きさ。
設置する高さ。
どこへ置けば梟が使いやすいか。
こういう話をしていると、不思議と楽しくなってくる。
もちろん、フクロウがこちらの都合通り来てくれるとは限らない。
野生の生き物だ。
住みたい場所にしか住まない。
だからこそ、こちらは環境を整えて待つしかない。
子育ての時期になれば、親鳥は何度も餌を運ぶ。
雛が育てば、餌の量も増える。
親鳥は自分の分だけでなく、雛の分まで獲物を捕らえなければならない。
それだけ、畑の周囲を飛び回る機会も増える。
「うまく住み着いてくれればいいんだけどな」
俺は雑木林を見る。
風が吹く。
ざわざわと葉が擦れ合う。
今はまだ何もいない。
だが夜になれば、あの林のどこかから梟の声が聞こえてくるかもしれない。
そうなれば、この畑も少しだけ頼もしくなる。
ネズミ退治をしてくれる動物は、何も猫だけじゃない。
狐もいる。
蛇もいる。
そして梟もいる。
農作物を荒らす生き物を食べてくれる存在は、昔から農民にとってありがたいものだった。
日本のお稲荷さんが狐なのも、その一例だ。
狐はネズミを捕る。
稲を守る。
そういう存在として、人々の信仰とも結びついていった。
結局のところ。
農業は、人間だけでやるものじゃない。
土も。
水も。
虫も。
鳥も。
獣も。
全部まとめて付き合っていくしかない。
「……さて」
俺はリンゴの木へ向き直った。
まだ小さい木だ。
枝も細い。
今は、収穫のことを考えるような段階じゃない。
それでも。
何年か先には、この枝に白い花が咲き。
花が散ったあとには、小さな実ができる。
さらに年月が過ぎれば、それが赤く色づいていく。
そうなれば、この土地で育てた林檎を江戸の人間に食べてもらえる。
そう思うだけで、胸の奥が少し熱くなる。
そして――。
実は、枝だけじゃない。
今回は林檎の実そのものも手に入れている。
籠の中に入った赤い果実を、一つ取り上げる。
表面を指で撫でる。
つるりとした感触。
鼻を近づけると、ほのかな甘い香りがする。
「さて、これで林檎を使った菓子でも考えるか」
焼いてもいい。
煮てもいい。
蜜を加えてもいい。
この時代には、まだ試されていない食べ方がいくらでもある。
料理人たちと相談すれば、きっと何か面白いものが作れるだろう。
もっとも。
俺は林檎を手の中で軽く放り上げる。
受け止める。
「そのまま食べるのが、一番うまいとも思うけどな」
そう言って、一口かじった。
しゃくっ。
小気味のいい音が、静かな菜園に響く。
甘い。
そして、少し酸っぱい。
口いっぱいに瑞々しい果汁が広がる。
「……うん」
思わず頷く。
やっぱり、これだ。
採れたての果物には、それだけで人を喜ばせる力がある。
俺はもう一度、リンゴの木を見上げた。
今はまだ、小さな若木。
だが、いつかこの枝いっぱいに花を咲かせ、赤い実をつける日が来る。
その日まで。
こいつがちゃんと育つよう、世話をしてやるとしよう。
そして夜には――。
この畑を守る梟が、どこかの枝に止まっていてくれれば最高なんだが。
そんなことを考えながら、俺は土をならし、若木の根元をもう一度確かめた。




