品川の客に坊主が多いのはあんまりいいことじゃねえんだがな
さて、品川の方の遊廓の土地の整備も進んできたとはいえ、今のところは飯盛旅籠が遊女屋であることに変わりはない。
街道を行き交う人々の姿を眺めながら歩いていると、旅籠の前では客を呼び込む飯盛女の姿が見え、その横を旅装束の男たちが通り過ぎていく。荷を積んだ馬が歩き、商人らしき男が店先で何かを値切っている。
こうして見ると、品川は遊廓というより、普通の宿場町にしか見えない。
もっとも、この宿場町には宿場町なりの、ちょっと変わった客層がいる。
「品川の客 にんべんあるとなし、か……」
ふと、以前聞いた川柳を思い出す。
にんべんがあるのは侍、にんべんがないのは寺を示すという洒落で、つまり品川の飯盛旅籠の客には、侍と寺の僧侶が多いということらしい。
実際、通りを眺めているだけでも、それらしい身なりの男がちらほら見える。
武士の方は理由も分かりやすい。薩摩藩の藩邸が芝や高輪にあったり、その他の藩の下屋敷もあちこちに点在していたりするため、吉原よりも近くて安い。
わざわざ遠くの吉原まで行くより、品川で遊んだ方が手軽だったわけだ。
幕末の高杉晋作や久坂玄瑞なんかも品川の遊廓をよく利用していたようだから、武士が品川で遊ぶこと自体は、それほど珍しいことでもなかったらしい。
そのとき、前方から馬を引いた男がやってきて、俺は道を空けるために少し端へ寄った。馬が通り過ぎたあと、その向こうに旅籠の軒先が並んでいるのが見える。
街道の向こうへ目を向ければ、芝の増上寺へ続く道もある。
江戸時代の東海道筋に当たる芝には、増上寺とその支院もたくさんあった。だから武士だけではなく、僧侶も品川へ流れてくる。
そんなわけで、武士と僧侶が品川の遊女屋の上顧客だったりするわけだ。
もちろん、地方へ帰っていく友人を見送るという理屈をつけて、品川で遊ぶ町人なんかも結構いたりするんだけどな。
旅籠の前では、主人らしき男が客に頭を下げ、その横では飯盛女が笑顔で男に声をかけている。表向きは普通の宿場の一風景だが、その裏で何が行われているのかを考えると、なかなか面白い場所ではある。
まあ、男が旅立つ友人を見送るだけなら、わざわざこんなところまで来る必要もない気はするが。
そんなことを考えながら歩いていると、今度は僧侶の姿が目に入った。
黒い衣をまとった男が、連れの者と何やら話しながら街道を歩いている。
「……そういや、坊主って女遊びは禁止だったよな」
基本的に江戸時代まで、坊主は浄土真宗を除くと肉食、女犯や妻帯は禁止されている。
浄土宗の場合は、そのあたりが結構曖昧だったりするようだし、吉原の非人の埋葬を引き受けてくれたのは浄土宗だけだったりもするので、そのあたりはありがたいんだけどな。
そもそも出家した者とは、俗世の家を出た者のことだ。そのときに妻子を有する者の場合は、妻子との縁を断ち切って仏門に入ったわけで、女犯の破戒僧としてさげすまれたため、陰間のような男娼商売も成り立っていたというのもある。
とはいえ、江戸時代までの日本は同性愛に対しての忌避感も少なく、「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの喜多八は陰間だったりするのだから、なんだかややこしい話ではある。
目の前を通り過ぎた僧侶は、そのまま旅籠の方へ向かっていった。
俺はその背中をしばらく眺めてから、また歩き出す。
そんな一方で、江戸幕府は僧の風紀の乱れに対しては、かなり厳しく目を光らせていた。
寺持ちの僧、すなわち住職の姦通は牢内で処刑された後、刑場で罪名を書いた木札とともに首を三日二夜、台木の上に晒された。木札は首が捨てられた後も三十日間晒されたという、かなり重い刑罰である獄門だった。
寺持ちの僧、すなわち住職の女犯も、伊豆七島などへの流刑である遠島と、日本橋での晒しという極めて重いものだった。
寺を持っていない所化僧の場合は、日本橋で晒されたうえで、それぞれの宗派の寺法において裁かれたが、まず例外なく退院、つまり僧籍を剥奪された。
一宗構いという宗旨からの追放か、一派構いという所属している宗派からの追放となり、僧としての資格を失って、その後の生活にも困ることになったわけだ。
「そこまでやるのかよ……」
俺は思わず呟き、再び街道へ目を向ける。
さっきの僧侶は、もう人混みの向こうへ消えている。
そんな僧侶が、もし飯盛旅籠へ入っていったら、いったいどうなるんだろうな。
そうなったのは、幕府が寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置いたことも大きい。
寺請の選択は檀家の意思に基づき、僧侶が檀家を奪い合ってはならないとされ、僧侶が徒党を組んだり、争いを起こしたり、副業をすることも禁止された。さらに、民衆をいずれかの寺院に登録させる檀家制度を確立させ、仏教の布教活動を実質的に封じたわけだな。
これは戦国時代までの比叡山や本願寺が、どんなことをしていたかを考えれば、幕府としては当然の対策だったとも言える。
街道では、旅人が荷物を背負い直しながら歩いている。店先では商人が客と話し、少し離れたところでは子供が走り回っている。
こうして眺めている限り、幕府が僧侶の風紀を厳しく取り締まっているようには、とても見えない。
ただ、こういった制度が確立することで寺院の安定的な経営が可能になった一方、墓を元にする祖先崇拝の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えが形骸化していった。
日頃の行いよりも戒名や墓に高額の金を出すのが良いとされる葬式仏教に堕し、信仰を広めるということも難しくなった。その結果、住職の多くが仏教的修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行も増えていったわけだ。
まあ、制度というものは、作ったときには作ったときの理由があるし、それが長く続けば別の問題も出てくるものなんだろう。
そう考えながら歩いていると、今度は芝の増上寺のことが頭に浮かんだ。
芝の増上寺は浄土宗で、女犯は基本禁止。
実際に寛政8年(1796)に寺社奉行となった板倉勝政は、遊女を買いにくる女犯僧を取り締まるために吉原に捕り方を配備した。
大門が閉まるまでに吉原を出た僧侶はあえて見逃し、朝帰りの者だけに的を絞ったが、それでも70人前後が捕らえられ、日本橋に3日間晒されたうえで遠島などの刑に処せられた。
このなかには増上寺の僧も5人含まれているので、増上寺だけ女犯が赦されていたわけではない。
俺は通りの向こうを眺める。さっきまで僧侶が歩いていたあたりには、今度は旅装束の男が二人並んで歩いていた。
「……となると、品川の坊主はどうなんだ?」
品川は道中奉行の管轄で、寺社奉行の管轄外だったのもあったのだろう。
吉原と品川では、そもそも取り締まる役所が違う。
もちろん、だからといって品川なら僧侶が女遊びをしてもいい、という話にはならない。
ただ、現実にはこうして僧侶が品川へ来て、飯盛旅籠で金を落としている。
旅籠の軒先を眺めると、また一人、男が中へ入っていく。
あれが普通の旅人なのか、それとも遊びに来た客なのか、外から見ただけでは分からない。
そして、徳川家の菩提寺である増上寺に関しての運営費用は、当然ながら幕府から出ている。
その増上寺の坊主が落としていく金を品川の伝馬・宿駅制度のために当てるなら、最初から品川の伝馬・宿駅のために金を出したほうがいい気がするんだがな。
俺は旅籠の前を行き交う人々を眺めながら、そんなことを考える。
僧侶の女犯を堂々と認めれば、幕府が定めた制度そのものとの矛盾が生じる。かといって、品川で金を落としてくれる客を片っ端から追い出せば、今度は宿場そのものの商売に響いてくる。
取り締まる側にも事情があれば、見逃される側にも事情がある。
「とはいえ、金を落とす客をわざわざ捨てるのももったいねえが……」
21世紀でも、金を持ってる寺の坊主は高級クラブやキャバクラの上客だったりするからな。
時代が変わっても、金を持っている人間が金を落とす場所というのは、案外変わらないらしい。
俺はそんなことを考えながら、相変わらず人の行き交う品川の街を眺める。
旅籠の軒先から聞こえてくる笑い声、街道を進む馬の蹄の音、客を呼ぶ飯盛女の声が重なり合って、品川の宿場は今日も普段と変わらない賑わいを見せていた。
「さて、どうしたもんかな?」
そんな街の様子を眺めながら、俺はもう一度、頭の中で考え直すのだった。




