江戸の治安維持に関して水戸の若様に相談してみたぜ
さて、吉原の仲通りは、以前のレンガ道から三和土へと変えた。
雨が上がったばかりだというのに、道は思いのほか歩きやすい。
下駄の歯で踏んでみても、ぐずりとも沈まない。
以前なら雨の翌日は、ところどころ泥が浮き、足を置く場所を選ばなければならなかった。
着物の裾が汚れる。
足を取られる。
酷いときには、滑って転ぶ者までいた。
それが今ではずいぶんと楽になった。
「うーむ……最初から三和土にしておけばよかったかな」
歩きながら、俺は足元を見た。
「まあ、レンガ道というのも、見た目は悪くなかっただろうけどな」
吉原の仲通りは、見た目を整えることも大事だ。
客に「ここは賑わっている」と思わせる。
女たちが歩く姿を少しでも美しく見せる。
そういう意味では、レンガ道にも意味はあった。
けれど、実際に毎日使う道なら、歩きやすさのほうが大切だ。
三和土は、見た目だけなら土を踏み固めた道と大して変わらない。
だが、雨の日には違いが出る。
道がぬかるみにくい。
泥が跳ねにくい。
転びにくい。
派手ではないが、こういう改良は積み重ねるほど効いてくる。
仲通りを歩けば、下駄の音が乾いて返ってきた。
カラン、カラン。
軒先では女たちが声を掛け合い、どこかの店からは煮炊きの匂いが流れてくる。
白粉の香り。
焚きしめた香。
焼いた魚の匂い。
いくつもの匂いが混ざり合い、吉原らしい空気を作っている。
そんな中を歩いていると、後ろから小さな足音が聞こえた。
トトトッ。
「戒斗様」
振り返る。
そこにいたのは、二代目藤乃付きの禿、桃香だった。
「藤乃様がお呼びでありんす」
「藤乃が?」
「はい。それと、水戸の若様が、戒斗様とお話ししたいそうでありんすよ」
「水戸の若様が?」
「はい」
徳川光圀。
水戸徳川家の若殿である。
先代の藤乃が身を引いてからも、こうして足を運んでくれるのはありがたい。
「分かった。今行くぜ」
桃香に案内され、揚屋へ向かう。
廊下へ入ると、外の喧噪が少し遠くなった。
畳を踏む足音。
障子の向こうから聞こえる話し声。
その奥から、妙に食欲をそそる匂いが漂っている。
辛い。
それに豆板醤のような、濃い香り。
麻婆豆腐だな。
どうやら光圀は、すでに昼餉を楽しんでいるらしい。
藤乃の持つ部屋の前まで来る。
俺は襟元を直し、障子へ手を掛けた。
「三河屋楼主戒斗、失礼致します」
障子を開ける。
「おお、楼主。来たか」
光圀は膳の前に座っていた。
目の前には、赤みを帯びた麻婆豆腐。
まだ湯気が上がっている。
「お待たせいたしました」
「いや、ちょうどよい」
光圀は匙を置く。
「この麻婆豆腐とやらは、ぴりっと辛くて美味いのう」
「お気に召しましたか」
「うむ」
光圀は機嫌よく笑った。
「私の屋敷でも食べたい。家の者に作り方を教えてもらえぬか」
「もちろんです。料理人に伝えさせます」
「それはありがたい」
光圀は満足そうに頷いた。
俺も笑みを返す。
だが、今日呼ばれた理由が料理だけではないことくらい、分かっている。
それなら、こちらも話を切り出そう。
「その代わりと言っては何ですが、水戸の若様にお願いしたいことがございます」
「ほう」
光圀の表情が変わった。
「申してみよ」
「はい」
俺は一呼吸置いた。
「吉原の外で、人を取る場所が増えております」
光圀は黙って俺を見る。
「見世物や芝居、小屋掛けの興行、茶屋などに紛れて、女を置く者です」
「岡場所というやつか」
「はい」
俺は頷いた。
「吉原としても、見過ごせる話ではありません」
「だが、取り締まるにも数が多い」
「その通りです」
俺は膝に手を置いた。
「根津、赤坂、浅草の辺りにも、人の集まる場所が増えています。大火の前とは、江戸そのものが変わってきている」
明暦の大火。
あの大火で、江戸は一度焼けた。
だが、焼け跡に以前と同じ町が戻ったわけではない。
人が動いた。
家が建った。
商売が移った。
町の外縁だった場所にも、人が増えている。
「以前なら、町奉行所が見ていればよかったところも、今ではそうはいきません」
光圀は静かに聞いている。
「そこでお願いがございます」
「うむ」
「町奉行所の手を、もう少し広げていただきたいのです」
光圀が眉を上げた。
「具体的には?」
「支配する場所を、今の江戸の広がりに合わせて見直すのです」
俺は続けた。
「芝、三田、飯倉のように人の住む場所が広がっている一方で、下谷、上野、浅草、今戸の辺りにも人が増えております」
「ふむ」
「人が住み、店を開き、道を行き交うようになった場所を、誰が見ているのか分からぬままにしておくのは危ういと思います」
これは岡場所だけの話じゃない。
盗人も出れば喧嘩も起きる。
火事も起きる。
町同士の揉め事もある。
人が増えれば、それだけ揉め事も増える。
なのに、昔の江戸と同じ仕組みで見張ろうとしている。
「それに、町奉行所の人手そのものも足りておりません」
俺はそう付け加えた。
「与力も同心も、増えた町を支えるには少のうございます」
光圀の顔が、わずかに険しくなる。
「……それで、増員を求めるか」
「はい」
「今年、幕府でその話が出ていることを知っておるのか?」
思わず、俺は光圀の顔を見る。
やはり、そこまで話は進んでいるらしい。
「噂として耳にしただけです」
俺はそう答えた。
実際には、知っている。
寛文二年。
幕府が町奉行所の手を広げようとしている年だ。
ならば――。
この機会を逃す手はない。
「でしたら、お願いがございます」
「まだあるのか」
光圀が苦笑した。
「町奉行所の人員を増やすだけでなく、支配の範囲も併せて整理していただきたいのです」
「なるほど」
「人が増えた町を見られるようにする。そして、その上で岡場所のような、表に出しにくい商売も取り締まれるようにする」
俺はそこで一度言葉を切った。
「それと……人手については、浪人の登用も考えてよいのではないでしょうか」
「浪人を?」
「はい」
仕官先を失い、腕もあるのに働けない者はいる。
そういう者を拾い上げればいい。
「武芸に覚えのある者や、読み書きのできる者を選び、同心として働かせる」
ただ養うよりもいい。
働く場所ができる。
町を守る者も増える。
「それなら、人を集めるのにも都合がよいでしょう」
光圀は腕を組み、黙り込んだ。
部屋の外から、かすかに風の音が聞こえた。
庭木の葉が擦れている。
やがて、光圀はゆっくりと頷いた。
「……一理ある」
「では――」
「すぐに決めることではない」
光圀は俺を見る。
「だが、話はしてみよう」
「どなたに?」
俺が尋ねると、光圀は少しだけ笑った。
「まずは、水戸の家中の者にでも話してみるとするか」
その言葉に、俺は黙って頷いた。
水戸徳川家。
ここから先は、俺が直接触れられる話ではない。
ならば、光圀を通す。
そして、光圀から幕閣へ。
そうやって一段ずつ上へ話を運んでもらうしかない。
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「うむ」
光圀は頷いた。
そして――。
ふっと表情を緩める。
「ところで楼主」
「はい?」
「この麻婆豆腐じゃがな」
「……はい」
「もっと辛くできるのか?」
「そっちですか」
思わず、俺は笑ってしまった。
「できますよ」
「それは楽しみだ」
光圀も声を上げて笑う。
座敷の空気が、また柔らかくなった。
だが、俺の胸の内は違った。
寛文二年。
江戸は変わり始めている。
明暦の大火で焼けた町を、ただ元へ戻すのではない。
幕府は、新しい江戸を作ろうとしている。
だったら――。
俺も、その流れに乗らせてもらう。
吉原を守るためだけじゃない。
人が増え続ける江戸に、今の町に合った仕組みを作るために。




