桃香は引っ込み禿として順調に育ってるぜ
さて。
俺が桃香を羅生門河岸で拾ってから、もう四年ほど経った。
あの日のことは、今でも覚えている。
薄汚れた着物。
伸び放題の髪。
頬はこけ、手足は細く、立っているのも辛そうなくらい痩せていた。
それが今では――。
「最初は、お前を河岸見世のドブ臭いやつなどと、言っていたやつも、今では何も言えなくなったな」
俺が笑って言うと、桃香は少し照れたように頬を緩めた。
「そうでやすか?」
「ああ。昔のお前を知ってる奴ほど、驚いてるんじゃないか」
「それも全部、戒斗様のおかげでありやすよ」
「いや、そんなことはないぞ」
俺は首を振った。
「桃香。お前が頑張ったからだ。それに、生まれ持った素質もある」
「……そうでやすか」
桃香は少しだけ目を伏せ、それから嬉しそうに笑った。
「それは、ありがたいことでやすな」
本当に、変わったと思う。
最初は顔も薄汚れていて、身体だって骨に皮が張り付いているようだった。
まずは飯を食わせた。
しっかり眠らせた。
身体が戻ってからは、読み書きや礼儀作法、唄、踊り、三味線と、覚えることを一つずつ増やしていった。
そして桃香は、教わったことを一つも無駄にしなかった。
稽古で失敗すれば、悔しそうに唇を噛む。
上手くできれば、ほんの少しだけ嬉しそうに笑う。
翌日になれば、また黙々と稽古を続ける。
四年間。
その積み重ねが、今の桃香を作ったのだ。
顔立ちもすっかり整い、手足にも少女らしい丸みが出てきている。
まだ幼さは残っている。
だが、その奥には、これから花が開いていくような気配があった。
――やっぱり、この娘は化ける。
初めて見たときの予感は、どうやら間違っていなかったらしい。
もっとも。
そんなことを考えている俺の横で、本人は将来のことなど気にしていられない様子で、目の前の稽古に集中している。
今日は藤乃の踊りの稽古だった。
畳の上には、禿たちが並んでいる。
三味線の音が流れる。
衣擦れの音が重なる。
畳を踏む足音が、小さく響く。
「桃香、腰をもう少し落として」
「はい」
「手は急がない。そう。今の感じ」
「はい!」
桃香が身体を動かす。
袖がふわりと揺れた。
手首を返す。
半歩進み、身体の向きを変える。
動きに無駄がない。
ただ形を覚えただけではない。
三味線の音を聞きながら、次に来る動きを身体で合わせている。
他の禿たちと比べても、やはり一段違って見えた。
親の欲目。
……と言いたいところだが、俺は桃香の親ではない。
だからこそ、贔屓目じゃないと思いたい。
「うん。桃香の歌舞音曲も、だいぶ様になってきたな」
俺がそう言うと、藤乃がにこにこと笑った。
「そうでやすな。戒斗坊っちゃんの目は、正しかったでやすよ」
「だろ?」
思わず胸を張ってしまう。
歌って、舞って、楽器を奏でる。
太夫を目指すなら、どれか一つだけというわけにはいかない。
だから引っ込み禿のうちから、いろいろな芸事を仕込まれる。
もちろん、誰もが同じところまで上達するわけじゃない。
向いている芸も違う。
本人の性格も違う。
それなら、それぞれに合った道を探せばいい。
「後四年もしたら、新造出しもしてやらんとな」
妙が嬉しそうに言った。
「ああ。そうだな」
俺も頷いた。
「盛大にやってやろう」
「お披露目のときは、引手茶屋も揚屋も驚くくらいにしましょう」
桃香が新造になれば、今までとは立場も変わってくる。
太夫付きの禿として道中の先頭に立つ今も、それなりに顔は知られている。
だが、道中の主役はあくまで太夫だ。
新造になれば、自分自身が新しい門出を迎えることになる。
そのときには、桃香の名前も今よりずっと広く知られるようになっているだろう。
――四年か。
そう思うと、時間の流れの早さに少し驚く。
俺が桃香を拾ったのは、たった四年前なのだ。
羅生門河岸の片隅で、今にも消えてしまいそうだった小さな娘。
あのとき俺は、桃香に聞いた。
『もしかしたら、今死んでしまったほうが楽かもしれない。それでも、この苦界でまだ生きていく気はあるか?』
桃香は黙って頷いた。
だから俺も決めた。
生きる気があるなら、生きられるようにしてやろう、と。
おそらく、母親がまともに稼げなくなった頃から、桃香はろくに食べられていなかった。
腹を空かせる。
眠れない。
身体が弱る。
弱れば、もっと何もできなくなる。
そんな悪循環だったのだろう。
だから、最初にやったのは飯と睡眠を整えることだった。
それだけでも、身体は目に見えて変わった。
そして今、俺の目の前には、その四年間の結果がある。
「……頑張ったな、桃香」
「え?」
「いや、なんでもない」
桃香が首を傾げる。
俺は笑ってごまかした。
正直に言えば、桃香に金も時間も人手もかけたのは、商売としての理由もある。
見込みのある娘には、きちんと投資する。
育てれば、それだけ大きな利益を生む。
それは遊郭だろうが、二十一世紀の風俗だろうが変わらない。
けれど。
今、こうして桃香の顔を見ていると、それだけでは説明できないとも思う。
もし最初に俺が見たのが、商売の可能性だけだったなら。
あのとき、腹を空かせたこの娘に飯を食わせようなんて、考えただろうか。
……たぶん、違う。
だから俺は、桃香だけを特別扱いするつもりはない。
大見世の遊女に向いていなければ、中見世で働けばいい。
工場仕事が向いているなら、そちらで稼げばいい。
万国食堂でも、吉原旅籠でも仕事はある。
売れないから終わり。
そんなことにはしたくない。
人には、それぞれ向いている場所があるのだから。
ただ、その人数が増えれば増えるほど、俺が背負う責任も重くなる。
今の俺は、吉原だけを見ていればいい立場じゃない。
品川の遊郭まで任されている。
そこでも、人が働き、人が暮らし、人が人生を作っていく。
俺の判断一つで、誰かの生活が変わる。
うまくいけばいい。
だが、判断を間違えれば、その代償を払うのは俺ではない。
そこにいる人間だ。
そう考えると、肩が重くなることがある。
桃香のように助けられた子もいる。
けれど、俺がまだ手を伸ばせていない人間だって、きっといる。
俺一人ですべてを救えるわけじゃない。
だからこそ、せめて自分の目の届く範囲にいる人間くらいは、できるだけ守ってやりたい。
そんなことを考えているうちに、稽古が終わった。
「今日はここまで」
「ありがとうございました」
禿たちが一斉に頭を下げる。
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
桃香も小さく息を吐き、額に浮いた汗を手の甲でぬぐう。
「ふう……」
「疲れたか?」
「ちょいとだけでありやす」
「よく頑張ったな」
「へへ」
桃香が笑った。
俺も笑い返す。
それから俺たちは、自室へ戻った。
襖を開けた、その瞬間だった。
「とーしゃー!」
ぱたぱたぱた、と小さな足音が響く。
「ん?」
次の瞬間には、清花が俺の脚へ飛びついてきた。
「しゃぼんー」
「シャボン玉?」
「あい!」
こくこくと頷く。
目が、きらきらしている。
「じゃあ、やるか」
「あい!」
一気に顔が明るくなった。
俺は笑いながら、シャボン玉の道具を取り出す。
江戸でもシャボン玉遊びは子供たちに人気があり、シャボン売りが町を歩いて売っている。
細い竹の管や葦の茎を使い、ムクロジなどから作った液を吹いて遊ぶのだ。
ただ、三河屋には石鹸がある。
なら、これを使えばいい。
「いくぞー」
俺は筒の先を液につけた。
持ち上げる。
そして、ゆっくり息を吹き込む。
「ふー……」
筒の先で透明な膜が膨らんだ。
次の瞬間。
ぽんっ。
一つのシャボン玉が宙へ飛び出した。
「わあ!」
清花が歓声を上げる。
夕暮れの光を受けたシャボン玉が、虹色に揺れる。
赤。
青。
緑。
紫。
見る角度が変わるたび、色がすうっと流れていく。
「きえー!」
清花が両手を伸ばす。
ぱちん。
一つ消える。
また一つ。
風に乗って逃げるシャボン玉を、今度は小さな足で追いかける。
「まてー!」
「待て待て」
俺は笑いながら、また一つ吹いた。
「きえたー!」
「消えちゃったな」
「あたらしい!」
「はいはい」
もう一度、筒を液につける。
「いくぞ」
「んー!」
ふーっ。
今度はいくつも飛び出した。
「わああ!」
清花が夢中になって追いかける。
触ろうとしては、ぱちん。
また消える。
それでも懲りずに、次の玉を追いかける。
その顔がおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。
「清花もやるか?」
「やりでし!」
「じゃあ、ちゃんと持てよ」
「あい!」
道具を渡す。
清花は小さな手でぎゅっと握った。
液につける。
口元まで持ってくる。
そして――。
「ふーっ!」
ぶくぶく。
シャボン玉ではなく、液が泡立った。
「あれ?」
清花は不思議そうに筒の先を見つめる。
「もう一回」
「ふーっ!」
ぶくぶく。
「あうー……」
今度はしょんぼりした。
「ほら。もっとゆっくりだ」
俺が手を添える。
「ふー……」
今度は、薄い膜がゆっくり膨らんだ。
そして。
ぽんっ。
「わあ!」
清花の顔が、ぱっと輝く。
「できた!」
「ああ。できたな」
清花は嬉しそうに、何度も何度もシャボン玉を飛ばしている。
そんな姿を眺めながら、俺は少し先の未来を考えた。
何年かすれば、この子も芸事や教養を身につけることになる。
三河屋の内儀になるにしても。
太夫を目指すにしても。
読み書きも、作法も、芸事も必要になる。
いつかは、この子にも大人として背負うものができる。
その日が来れば、今みたいに何も考えず遊んでいるわけにはいかなくなるだろう。
だからこそ。
今くらいは。
こうして笑っていてもいい。
「とーしゃー!」
「ん?」
「もっと!」
「ああ。もう一回な」
俺は笑って、またシャボン液に筒を浸した。
夕暮れの光の中。
虹色の小さな玉が、また一つ。
ふわりと宙へ舞い上がった。
それを追いかける清花の笑い声が、部屋の中に響いていた。




