品川の飯盛旅籠を買い取って三河屋品川分店としたぜ。
さて。
飯盛旅籠の「尾張屋」で働く、おじゃれに話を聞いてみた。
どうにも、この旅籠。
あまり景気がよろしくない。
原因はいくつかあるようだが、一番大きいのは――伝馬の負担金が滞っていることだった。
つまり、金がない。
明暦から元禄にかけては、全体として景気が悪い時代ではない。
だが。
景気がいいからといって、誰も彼もが商売で成功するわけではない。
バブルの時代だってそうだった。
景気がいいからと商売を始め、借金を抱えて潰れる者はいた。
コンビニやデリヘルが一気に増えた頃だってそうだ。
「これからはこれだ」ともてはやされても、実際に経営してみれば失敗する者は少なくない。
むしろ、流行が定着してから参入した者のほうが、競争が激しくなっている分だけ苦労する。
結局のところ――
商売は、景気だけでは決まらない。
「まあ、誰がやっても経営がうまくいくってわけじゃないしな」
というわけで。
翌朝。
俺は尾張屋の主人と直接話をすることにした。
「お前さんが、ここの旅籠の主人かい?」
「はい。そうですが……」
主人は青白い顔をしている。
どうやら、昨日の時点で俺が何者なのか、ある程度は聞いているらしい。
「何か、重大なお話があると伺いましたが……」
「ああ」
俺は頷いた。
「この旅籠の権利を、借金ごと買いたい」
「……え?」
「もちろん、女中や下働きの者も含めてだ」
主人が目を見開いた。
「こ、この宿を……ですか?」
「ああ」
「ですが……」
主人は一瞬ためらってから、おそるおそる口を開いた。
「千両は必要になりますぞ」
「千両か」
現代の感覚なら、おおよそ一億円。
決して安くはない。
だが――。
「問題ねえ」
俺は即答した。
「俺は吉原の惣名主をやってる三河屋の戒斗だ。昔ならいざ知らず、今の俺なら、それくらいは何とかなる」
「吉原の……惣名主様……」
主人は目を丸くした。
そして、しばらく黙り込んだあと。
「……では、私はお払い箱ということで?」
「いや?」
俺は首を振った。
「お前さんが俺の指示に従って、ここを経営してくれるなら、そのまま主人でいてもらって構わねえ」
「私が……?」
「ああ」
「では、どのような条件で?」
「まず一つ」
俺は指を一本立てた。
「おじゃれや留女、下女なんかの下働きの者にも、ちゃんと飯を食わせろ」
「……はい?」
「そして、お前さんも同じものを食え」
「…………」
主人の顔が引きつった。
「わ、私に……下女と同じものを食べろと?」
「ああ」
「それは……」
「嫌なら辞めてもらっても構わん」
俺は淡々と言った。
「俺はそうしてるけどな」
「……」
「それに品川なら、蜆や蛤を売り歩く棒手振りだっている。働く気があるなら、食っていく道はいくらでもあるだろ」
主人は黙り込んだ。
今まで経営者として、使用人より良いものを食ってきたのだろう。
突然、
――これからは皆と同じ飯を食え。
と言われれば、そりゃ納得しにくい。
まあ、俺自身も昔は結構甘やかされていた。
だから気持ちはわからなくもない。
だが。
今のこいつに、そんな贅沢を言っている余裕がないことも確かだ。
しばらくして。
主人は、ようやく顔を上げた。
「……わかりました」
「ああ」
「私も、皆と同じものを食べるようにいたします」
「それでいい」
「それから……?」
「俺のところから若い衆を何人か置かせてもらう」
「若い衆を?」
「ああ。帳簿や仕入れも見させてもらう。俺自身も、できるだけこっちに顔を出す」
「……わかりました」
「それと」
俺はもう一つ付け加えた。
「最低でも一汁一菜くらいは、毎日きちんと食わせてやれ」
「はい」
俺が商売をするうえで、大事だと思っていることがある。
従業員の待遇を悪くしすぎないことだ。
売上が悪くなる。
だから給金を削る。
飯を削る。
待遇を削る。
だが――。
経営者だけは自分の取り分を確保する。
これでは、現場の人間がやる気を失うのも当然だ。
従業員に働いてもらいたいなら、経営者だって相応に覚悟を見せなければならない。
そして、現場が一人辞めた。
それでも店が回ってしまった。
すると経営者は、
「一人減っても大丈夫じゃないか」
と考える。
だが。
残った連中には確実に負担が増えている。
そこで、もう一人辞める。
さらに一人。
気づいたときには――。
店そのものが回らなくなっている。
それを、
「最近の従業員は根性がない」
なんて言って従業員のせいにする経営者もいる。
俺に言わせれば、それは経営者の無能だ。
人手不足というのは、単純に人がいないから起きるわけじゃない。
その職場に、人が残りたいと思える魅力がない。
それも大きな原因だ。
だからこそ。
経営者は現場の目線を持たなければならない。
「じゃあ、品川の名主さんのところへ行くか」
「はい」
こうして俺は、尾張屋の主人を連れて品川の名主のもとへ向かった。
「おや?」
俺たちを見るなり、名主が首を傾げる。
「三河屋さん。それに尾張屋さんまで。いったいどうなさいました?」
「ああ」
俺は簡潔に説明した。
「俺は尾張屋の旅籠を、借金ごと買いたい」
「……ほう」
「こっちとは話がついている。だが、名主のお前さんにも話を通しておかねえとな」
「なるほど」
名主は尾張屋の主人を見る。
「では、滞っている伝馬の負担金も、三河屋さんが肩代わりしてくださる、と?」
「ああ」
「その代わりに?」
「尾張屋の経営は俺がする」
俺は主人を指した。
「こいつには番頭として残ってもらう。ただし、俺のところから若い衆を派遣する」
「ふむ……」
名主は少し考え込んだ。
「それなら、必要になるのは千両ほどになりますが?」
「ああ」
俺は頷いた。
「問題ねえ」
「……わかりました」
名主も頷く。
「では、金の受け渡しは後ほどとして、証文を作成いたしましょう」
「ああ、頼む」
そこで、ふと思いついた。
「あと――」
「はい?」
「屋号が尾張屋のままってのも、なんか不吉だ」
「不吉……ですか?」
「せっかくだ。三河屋品川分店にしてくれ」
「なるほど」
名主は苦笑しながら頷いた。
「わかりました」
こうして。
俺は尾張屋を買い取った。
借金も引き受け。
働いている女たちも、そのまま引き継ぐ。
主人には番頭として残ってもらい、俺のところから若い衆を送り込む。
そして屋号は――。
**三河屋品川分店。**
これが、俺の品川進出の第一歩となった。
もちろん。
千両という金は、決して安くない。
だが。
俺は、吉原の改革でも同じことをやってきた。
外から、
「こう変えろ」
と言うだけでは、現場は変わらない。
ならば――。
自分で中に入る。
経営そのものを握り。
現場を見て。
働く者の待遇を変え。
少しずつ仕組みを変えていく。
品川を変えるなら。
やはり、これが一番確実だろう。
吉原でやったようにな。




