南品川の遊女や留女の扱いも経営が厳しいと良くはないようだな
一見すると、南品川はずいぶん栄えている。
人通りは多い。
旅籠の前には客引きが立ち、店先からは飯や酒の匂いが漂ってくる。
けれど――。
「栄えているように見えて、楽じゃないんだよな……」
俺は宿場町を歩きながら、小さく呟いた。
江戸時代の宿場町には、大きな負担がある。
それが伝馬だ。
幕府の役人や公用の旅人。
書状や荷物。
そうしたものを東海道で運ぶため、宿場ごとに人足と馬を用意しなければならない。
徳川幕府は慶長六年(一六〇一年)に東海道の伝馬制度を整えた。
そして寛永十五年(一六三八年)には、一宿につき人足百人、馬百疋を用意することになっている。
「人足百人に、馬百疋……」
改めて考えると、とんでもない数だ。
しかも馬は、用意するだけでは終わらない。
飼葉も必要だ。
厩も必要になる。
世話をする人間だって必要だ。
病気になれば治療もしなければならない。
当然、それには金がかかる。
そして、その負担を宿場だけで背負うのは難しい。
周辺の村々からも人足や馬が出されることになる。
つまり――宿場が栄えれば栄えるほど、周辺の村にも負担が増えていくわけだ。
品川宿も例外ではない。
しかも、品川の周辺には将軍家の御鷹場がある。
鷹場の管理や整備、将軍家がお成りになる際の炊き出しや道具の運搬など、宿場や周辺の村々には、伝馬以外にも様々な役目がある。
「そりゃあ、村のほうも大変だよな……」
農民にしてみれば、田畑の仕事がある。
それなのに公用が入れば、人足や馬を出さなければならない。
しかも、それが重なれば重なるほど生活は苦しくなる。
では、宿場の側は楽なのか。
――そんなこともない。
百人の人足と百疋の馬を維持するだけでも、かなりの費用がかかる。
その負担を少しでも補うためには、旅人から金を落としてもらう必要がある。
飯を食わせる。
酒を飲ませる。
芸を見せる。
そして――女を置く。
宿場の飯盛女というのも、そうした事情の中から生まれてきたのだろう。
吉原のような遊廓とは違う。
あくまで旅籠の女中という建前だ。
だが、実際には客の相手をする。
もちろん、幕府だって何もかも好き勝手にさせているわけではない。
寛文二年(一六六二年)の今も、飯盛女の存在や華美な振る舞いは、幕府にとって気になるところなのだろう。
それでも宿場にとっては、旅人から金を落としてもらうための重要な存在だった。
「結局、宿場を維持するために必要なんだろうな……」
俺は歩きながら、そんなことを考えていた。
吉原だって、明暦の大火の後に浅草へ移されている。
江戸の中心から離れたことで、客足の問題は当然出てくる。
品川もまた、江戸から見れば外れにある宿場町だ。
それでいて、伝馬という重い負担を抱えている。
「見た目ほど儲かってるわけじゃない、か」
そんなことを考えていた、その時だった。
「……そこの、だんなはん」
か細い声がした。
「こっちに、おじゃれ……」
俺が振り向く。
そこにいたのは、一人の女だった。
細い。
顔色も悪い。
力なく手招きをしている姿は、下手をすれば幽霊に見える。
「……大丈夫か?」
「へ、平気でやす」
いや。
どう見ても平気じゃない。
たぶん、まともに飯を食えていない。
その横には留女も立っていたが、こちらもあまり忙しそうではない。
客が少ないのだろう。
「ああ……今日はここにするか」
俺がそう言った瞬間。
女の表情が、ぱっと明るくなった。
「ありがたくおじゃる! ささ、どうぞ!」
「旦那さん、こちらへ!」
留女まで嬉しそうだ。
案内されて宿の中へ入る。
近くで見ると、留女が着けている前垂れも、ずいぶんと古びている。
本来なら炊事や給仕の際に着物を汚さないためのものだろう。
だが、この宿では別の意味もあるらしい。
古着の傷みを隠して、少しでも見栄えを良くする。
そんな工夫なのだろう。
着物そのものも、かなりくたびれている。
「さあ、旦那さん。足を洗いますよ」
「ああ、頼むわ」
玄関先のたらいに汲まれた湯で、足と脚絆を洗う。
それから玄関を上がった。
「では、宿賃は二百文になります」
「ああ、二百文な」
俺は懐から銭を取り出して渡す。
「ほれ」
「はい、確かに」
銭を受け取った留女が、にこりと笑った。
「では、お部屋へ案内しますね」
「ああ、頼む」
案内された部屋は、それなりの広さのある座敷だった。
ただし、きれいとは言い難い。
畳も古い。
壁にも傷がある。
「では、お食事をお持ちして、おじゃれもお呼びしますね」
「ああ、頼むよ」
しばらくして飯盛女が膳を運んできた。
その後ろから、三味線や太鼓を持った芸者たち。
そして、さっきのおじゃれたちも部屋へ入ってくる。
まずは宴会から、ということらしい。
吉原とは形が違うが、客に酒や芸を楽しませるという点では似ている。
「旦那はん。まずは一曲とともに、お酒を一献いかがでやすか?」
「ん、いいぜ。いくらだ?」
「酒と肴で五百文ですえ」
「じゃあ、貰おうか」
俺は五百文を払った。
「ありがとうございやすえ」
おじゃれが飯盛女へ声を掛ける。
やがて酒と肴が運ばれてきた。
「おっ」
俺は膳を見て声を上げた。
「はまぐりの酒蒸しか。これはいいな」
「ですやろ? 今は汐干狩りの時期でやすしな」
そう言って、おじゃれが俺の横へすすっと寄ってくる。
酒を注いだ。
「それと、今夜の分で番頭さんへのご祝儀が一匁。私へのご祝儀が五匁でやす」
「両方、お前さんに渡せばいいのか?」
「はい」
「じゃあ、六匁だな」
俺は金を渡した。
そして、そのまま続ける。
「あと、お前さんたちの分の飯も頼んでくれ」
「……え?」
「お前さん、ろくに飯を食ってないだろ?」
おじゃれが目を見開いた。
「あ、え……」
「本当に食ってないんだな」
「……ほんまに、いいんで?」
「ああ」
俺は酒を一口飲む。
「こう見えても俺は吉原の惣名主――三河屋の楼主でな」
「吉原の……」
「だから、この手の店のことはある程度分かる」
俺は部屋の外へ視線を向けた。
静かだ。
廊下を歩く人間も少ない。
他の客の声も、ほとんど聞こえてこない。
「この店、かなり厳しいんじゃないか?」
「…………」
おじゃれは黙り込んだ。
そして、やがて小さく頷く。
「……あい」
「やっぱりか」
俺は盃を置いた。
「別に、俺に対して無理に客を取らなくていい」
「え?」
「その代わり、この店の状況を話してくれ」
「……分かりやした」
ほどなくして、厨房から新しい膳が運ばれてきた。
おじゃれや芸者たちは、遠慮しながら飯をよそっている。
だが、一口食べた途端。
箸が止まらなくなった。
やっぱり腹を空かせていたんだ。
客が取れない。
だから飯も減らされる。
――どこの世界でも、弱い立場の人間から削られていく。
俺は酒を飲みながら、店の話を聞いた。
宿泊客が減っている。
それだけではない。
伝馬に関わる負担が重く、金のやり繰りも苦しい。
宿の経営そのものが、かなり厳しいらしい。
「なるほどな……」
俺は盃を置いた。
吉原とは事情が違う。
だが、ここにもここなりの事情がある。
そして――。
俺には、ひとつ気になることができた。
「明日の朝」
俺は静かに言った。
「この宿の主人に会わせてもらえないか?」
「主人はんに、でやすか?」
「ああ」
俺は笑った。
「この店の権利を、買えないか話をしてみたい」




