4月の衣替えはみんなでのんびり針仕事だ
さて、三月の花見は三河屋だけで終わったわけではない。
俺が抱えている十字屋、中見世の伊勢屋、小見世の椿屋、切見世、美人楼、万国食堂、花鳥茶屋、吉原旅籠。
それに親分の工場、養生院、養育院。
そこで働いている者や暮らしている者たちも、病気の感染などに問題がないことを確認したうえで、何度かに分けて花見を楽しんだ。
「やっぱり、たまにはぱっと騒がないとな」
普段とは違う晴れ着を着る。
餅を食べる。
酒を飲んで、皆で笑う。
こういう「ハレ」の日というのは、毎日を生きていくうえで案外大事なものだ。
毎日が楽しいわけじゃない。
だからこそ、特別な日くらいは思い切り楽しむ。
それでまた、明日から頑張れる。
そんなものなのだろう。
そして――。
三月の花見が終われば、四月。
今度は衣替えの季節である。
「流石に、もう綿入れじゃ暑いしな」
俺は冬の座敷着を広げた。
表地と裏地の間には、冬の寒さを防ぐための綿が入っている。
暖かいのはいい。
だが、春になればさすがに暑い。
そこで綿を取り出し、仕立て直して袷にする。
この時期になると、吉原の外から衣替えを手伝う臨時の針子も大勢やってくる。
何しろ、衣替えは一斉に行われる。
自分の分だけならまだしも、夫や子供、家族の分まである。
女たちはこの時期になると、針仕事に追われることになるわけだ。
「昔の女の人は、本当に大変だよな」
俺がそう言うと、桃香が針を動かしながら笑った。
「そうでやすか?」
「だって、着物って破れたら自分で直すんだろ?」
「そりゃそうでやすよ。捨てるなんてもったいないでやすから」
「だよなぁ」
当時の着物は、今の服みたいに破れたからといって簡単に買い替えるものではない。
農家なら麻などを使って布を織る。
町人なら古着を買い、破れれば継ぎを当てて使う。
布そのものが貴重なのだ。
「それに、衣替えの時には一度ほどくこともありやす」
「そこまでやるのか?」
「あい。洗うためでやすよ」
着物は一度縫い目をほどいて布に戻し、洗濯してから、また仕立て直す。
いわゆる洗い張りというやつだ。
「……それは確かに大変だ」
「だから、針仕事が上手なのは大事なんでやす」
「なるほどな」
女性にとって裁縫は、単なる趣味ではない。
夫や子供、舅や姑の衣類を整える。
破れれば繕う。
季節が変われば仕立て直す。
家族が暮らしていくための、大切な仕事なのだ。
だからこそ、裕福な家では専門の職人までいた。
公家や上級武家、寺院、大店などには、反物から着物を仕立てたり、衣替えの仕立て直しをしたりする女性もいる。
針妙や御物師と呼ばれる、高級衣類を扱う職人だ。
「そう考えると、裁縫って結構重要なんだな」
「そうでやすよ」
桃香が得意そうに胸を張った。
「わっちは、ちゃんとできやすから」
「おう。それは頼もしいな」
だが――。
遊女となると、少し事情が違ってくる。
読み書き。
九九などの算術。
各地からやってくる武士の方言。
三味線。
踊り。
その他の芸事や教養。
遊女が覚えることは、とにかく多い。
そのため、針仕事や洗濯まで十分に覚える余裕がないこともある。
年季が明けたり、身請けされたりして普通の家庭に入ると、それが問題になることもある。
桜が清兵衛のところへ嫁ぐとき、
「これではまずいだろう」
ということで、万治二年(一六五九年)から花嫁修業を始めたのも、そのためだった。
「まあ、そう考えれば――」
俺は周りを見回した。
「こういう日に自分でやるのも悪くないな」
「そうでやすね」
「よし。今年も衣替えは自分でやるぞ」
「あい!」
真っ先に反応したのは桃香だった。
「わっちも頑張りやす!」
「おう。桃香はなんにでも一生懸命だな」
「わっちは、それが取り柄でやすから」
桃香が嬉しそうに笑う。
「これだけ針が上手なら、将来も安泰だな」
「そうでやすか?」
「ああ。針仕事は大事だからな」
「えへへ……」
桃香は照れくさそうに笑った。
その隣では――。
「ころがえ?」
清花が不思議そうな顔をしていた。
「ああ。衣替えだ」
「ころがえ?」
「暑くなってきたから、服の中に入っている綿を抜くんだ」
「あーしもやゆー!」
清花が元気よく手を挙げた。
「やりたいのか?」
「あい!」
さて。
清花に縫い針を持たせるのは、まだ怖い。
何しろ小さい。
下手をすれば指に刺してしまう。
「じゃあ清花は、糸を切るところからやってみようか」
「あーい!」
途端に清花の顔が輝いた。
俺は和鋏を取り出した。
「清花、鋏の間に指を入れちゃ駄目だからな」
「あい」
「痛いぞ」
「あい!」
「よし。じゃあ、一緒にやろう」
俺は清花の手を上から包むようにして和鋏を持たせる。
そして縫い糸に鋏を入れた。
ぱちん。
「ほら、こうやれば糸が切れる」
「あーい!」
清花が目を輝かせた。
「もういっかい!」
「はいはい。じゃあ次はここだ」
ぱちん。
「あーい!」
「次」
ぱちん。
「あーい!」
一本切るたびに、清花は嬉しそうに声を上げる。
……まあ、見ている俺としては、いつ指を切るかとひやひやしているんだが。
「清花、ちゃんと鋏を持ってるから偉いぞ」
「あい!」
褒められた清花は、さらに張り切った。
その様子を見ていた周りの遊女たちも、いつの間にか笑顔になっている。
子供が一人楽しそうにしているだけで、場の空気まで明るくなる。
「戒斗様、できやしたー!」
今度は桃香の声だ。
「おお」
見ると、縫い目はかなり綺麗だった。
「ちゃんと見栄えよくできてるな。偉いぞ、桃香」
「えへへ。わっち、頑張りやしたから」
「うん。これは上手い」
「ほんとでやすか?」
「ああ」
桃香は満面の笑みを浮かべた。
その一方で――。
「ううむ……」
難しい顔をしている女がいる。
二代目藤乃こと紅梅だ。
「針仕事というのは、結構難しいもんでやすなぁ」
「どれどれ」
俺は紅梅の着物を見る。
……うん。
これは。
「紅梅」
「あい」
「流石に、お前さんの衣装の縫い方が雑なのはまずい」
「やっぱりでやすか……」
「ああ。三河屋一番の太夫が着てる着物だからな」
「面目ありやせん……」
「まあ、最初から上手くできなくてもいい。後で針子に教えてもらいながら縫い直そう」
「あい。そうしてくださんせ」
紅梅は少し恥ずかしそうに笑った。
まあ、焦る必要はない。
できないなら、できるようになるまで練習すればいい。
そして、その少し離れたところでは――。
「針仕事は難しいでやすな、お姉ちゃん」
茉莉花が針を持って苦戦していた。
「じゃあ、お姉ちゃんがやりやしょうかね」
鈴蘭が手を伸ばす。
「あーい。お姉ちゃん、ありがとうでやすよ」
鈴蘭は茉莉花から針を受け取ろうとする。
「鈴蘭」
「はい?」
「ちょっと待った」
「?」
「茉莉花にやらせてみよう」
「でも……」
鈴蘭が妹を見る。
茉莉花は針を握ったまま、不安そうな顔をしている。
「失敗してもいいんだよ」
「……いいんでやすか?」
「ああ」
「でも、お姉ちゃんがやったほうが……」
「それだと、茉莉花はいつまで経っても自分でできるようにならないだろ?」
「……あ」
鈴蘭が目を丸くした。
茉莉花も俺を見る。
「お姉ちゃんが手伝ってやるのは悪くない。でも、何でもやってやる必要はない」
「はい……」
鈴蘭がゆっくりと手を引っ込めた。
「じゃあ、お姉ちゃんは見てるだけにしやす」
「それがいい」
茉莉花は針を握り直す。
「……やってみるでやす」
「ああ。ゆっくりでいいぞ」
「はい!」
少し震えながら、茉莉花が針を布に刺す。
一針。
そして、もう一針。
「……できた!」
「おお」
まだ少し曲がっている。
けれど――。
「ちゃんと自分でできたじゃないか」
「えへへ……」
茉莉花が嬉しそうに笑う。
鈴蘭も隣で、
「上手でやすよ、茉莉花」
と笑った。
その声を聞きながら、俺は清花のほうを見る。
「清花、次はここだ」
「あーい!」
ぱちん。
また一本、糸が切れた。
「あーい!」
清花の嬉しそうな声が、春の部屋に響いた。




