08.喫茶村役場メニュー:美味しい水(無料)
村に戻ったエリは村役場の掃除に励んだ。
ロビーの床とテーブルを綺麗に拭き、蛍光灯を取り替える。
古いカーテンを洗い、窓を磨き、軋んだドアに油を差す。
今まで手を付けていなかった一階右側の内部も確認した。
ドアを開けるとすぐに上がり框の段差があり、靴を脱いで上がる板間になっていた。
エリはこんなこともあろうかと、用意していた靴カバーを靴に装着し、飴色の木の床板に乗る。
以前は集会などで使われていたのかもしれない。
スペースは優に二十畳以上ある。
今は倉庫代わりに使われていたのだろう。机や椅子が重ねて置かれていた。
椅子も机も、木製でかなりの年代物だ。
古すぎて一周回ってオシャレに見える。
「うん、まだ、使えそうね。……あれ?」
この部屋はまだ蛍光灯を変えてない。
そのため、灯りはエリが持つ額のヘッドライトと懐中電灯だけだ。
エリは懐中電灯を右側奥に向けた。
二階に通じる階段がある。
だが、階段の一段一段に大きな段ボールがズラッと置かれていた。
「これは、ちょっとやそっとでは通れないなぁ」
段ボールの中はいずれ確認しないといけないが、今すぐでなくてもいいだろう。
エリは椅子とテーブルを持ち出し、ドアをしっかりと閉じた。
栗原に水質検査のボトルを渡して四日後。
栗原から電話が来た。
「はい、百田です」
「もしもし栗原です。水質検査ですが、問題ないそうです」
「えっ、結果出るの、早いですね」
「災害時に飲用水として使えるかどうか迅速に判断しないといけないことがあるので、簡易検査は比較的すぐ結果が出るんです。文書で正式な回答が届くのはもう少し後になりますが、あの水は飲めます」
「良かった。ご連絡、ありがとうございます」
農薬とか微量金属まで調べるフル項目の結果が届くのは、一ヶ月後だそうだ。
ロビーは一通り片付けたが、他の部屋の掃除が残っている。
「さて、今日も頑張ろうっと」
とエリが今日も村役場の掃除している最中、チリーンとドアベルが鳴った。
エリはハッとしてそちらを振り返る。
「ごめんください……」
か細い声とともに入ってきたのは、杖をついたまだ若い男性と、老婦人だ。
「いっ、いらっしゃいませ」
一瞬、あまりのことに呆然としたエリだが、あわてて二人に駆け寄る。
同じ村人同士だが、見たことがない人だ。
杖をついた青年を、老婦人が抱えるようにして立っている。
年齢的にはまったく真逆の光景だが、青年の方が老婦人より遙かに具合が悪そうだ。
老婦人が切羽詰まった様子で、エリに言った。
「突然申し訳ありません。ここの電気が付いていたので入ってきてしまいました。あの、お水をいっぱい頂けないでしょうか」
「えっ、あ、水ですね。あの、この水、簡易検査は通っているんですが、正式な回答はまだなんです。だからそのう……」
エリの言葉に、老婦人は心配そうに眉をひそめた。
「飲めないお水なのですか?」
「えっと、一杯くらいなら大丈夫だと思います。私も飲みましたが、お腹壊してないです!」
「ではお水を頂けないでしょうか。この通り、坊ちゃまが、散歩の途中で具合が悪くなってしまって……」
「あ、は、はい。ただいま。とりあえずおかけください」
とエリは彼らに椅子を勧めた。
青年の顔色はとても悪い。
遠目に見ても線が細そうな男性だったが、近くで見ると一層、痩せこけ、顔色が悪い。
額に脂汗が滲んでいた。
エリは猛スピードで台所に駆け込み、水を汲んで、またロビーに戻った。
「お水です!」
「ありがとうございます……」
青年は骨張った手で水を受け取り、震える手を老婦人が支えるようにして口元に持っていく。
こくりと飲み込んだ後、青年は「ほうっ」とため息をついた。
「ほー」
エリと老婦人もつられて安堵のため息を吐いた。
「あの、奥にソファもあります。横になりますか?」
とエリは青年に薦める。
青年はゆるゆると首を横に振った。
「ありがとうございます。ですが、お水を頂いて、少し気分が良くなりました。大丈夫だと思います」
そうしてほんの少しだけ彼は笑った。
「申し訳ありませんが、もう一杯、お水を頂けますか? 出来れば、鴫原の分も」
「はい、ただいま」
エリは二人分の水を汲み、青年と鴫原と呼ばれた老婦人に手渡した。
一口水を飲んだ老婦人は目を輝かせた。
「まあ、美味しい。『上』の水を飲めるなんて寿命が延びましたわ」
「大袈裟だな、鴫原は。でも、そうだね、とても癒やされる感じがする」
と二人は水を飲んで微笑み合う。
てっきり祖母と孫かと思ったが、そうじゃないようだ。
「申し遅れました。僕は一ノ瀬裕真です。『下』の1番地に住んでいます」
まず青年、一ノ瀬が名乗り、次に老婦人がエリに深々頭を下げた。
「わたくしは一ノ瀬家に務める女中に鴫原と申します」
その鴫原に一ノ瀬は苦笑しながら声をかける。
「鴫原、今どきは女中でなく、家政婦さんと言うんだよ」
「あら、そうでしたね。家政婦の鴫原と申します」
と鴫原は笑いながら訂正した。
一ノ瀬は二十代初めくらい、鴫原の方は七十過ぎの白髪のおばあさんだ。
姿勢も良く、一ノ瀬より遙かに元気そうである。
「私は百田エリです。村の嘱託職員をやっています。下の百番に住んでます」
エリが名乗ると、鴫原が言った。
「百田さんと言えば、キヨ子さんのお孫さんですか?」
「あ、そうです」
「そうでしたか。キヨ子さんはお元気ですか?」
「えっと、亡くなったんです。二週間くらい前に……」
「まあ」
と鴫原は絶句した。
「家人が失礼しました」
と一ノ瀬が頭を下げ、鴫原も丁重に腰を折った。
「本当に。知らなかったとは言え、申し訳ありません」
「いえ、お祖母ちゃんの知り合いに会えて良かったです……」
これはエリの本心だ。
『下』の一番地は寒梨村でも裾野の方、『上』に近いこの辺りは少し距離がある。
お葬式に来てくれたのも、近所に住む人だけだったので、鴫原には祖母が亡くなったのは伝わらなかったのだろう。
村には町内会会報誌も連絡網すらない。
「ここのところ、僕の体の具合が良くなかったから、鴫原も家を離れられずに居たんです。本当に失礼しました」
と一ノ瀬は改めてエリに謝罪した。
「失礼致しました」
と鴫原からももう一度謝られた。
「……いえ、気にしないでください」
エリは二人に言う。
「ありがとうございます。今日は久しぶりに気分が良くなったので、神鳴寺まで散歩に行こうと思ったのですが、ここで具合が悪くなってしまって……。ご迷惑をおかけしました」
と一ノ瀬は少し残念そうに呟いた。
病気の話なので、まったく知らない間柄で深入りするのは躊躇われる。
エリは、「迷惑なんてことはないですよ」と言うだけに留めた。
「でも、以前から入ってみたかった村役場に入れてラッキーでした」
一ノ瀬はチラリと若者らしい口調で微笑み、中を見回す。
「こんな風になっていたのですね」
「そうなんですよ、まあ、懐かしい……」
と鴫原も目を細める。
「あの、お二人はこちらに長くお住まいなんですか?」
思い切ってエリは二人に聞いてみた。
「いいえ、僕は最近、療養でここに来ました。鴫原は僕のお守り役で同行してくれました」
「一ノ瀬家は代々寒梨村に住んでおいでだったんです。神社の神官をお勤めのお家でしたが、四十年以上前にご一族様はこの地を去りました」
と鴫原が横から言い添える。
「今は家だけ残っている状態で、田んぼも何も放置しっぱなしです」
「そうでしたか。私も最近越してきたばかりなんで、色々村のことは分からないのです。でも村の職員として頑張りますので、よろしくお願いします」
とエリは二人に頭を下げる。
それを聞いて一ノ瀬が目を輝かす。
「では、この村役場にまた来てもいいですか?」
「もちろんです」
「良かった。ここの水を飲むととても気分が良くなったんです。この井戸の水は昔から名水と名高いのです。病気快癒の御利益があると言い伝えられていました」
と一ノ瀬が言う。続けて鴫原も、
「昔は遠くからこの水を求めてやって来る人もいたそうです」
と教えてくれた。
「そうなんですか……」
「では、また来ます」と二人は出ていった。
エリは、第一村人と第二村人に出会った!




