35.『上』へ
エリは神鳴寺を出て、『上』にあるという大屋の家に向かった。
住職の言う、トンネル。
それはエリも村の見回りの最中に見たことがある。
『上』の右手、神鳴寺の近くにある小さく、古そうなトンネルだった。
覗き込むとトンネルの向こう側が光っているのが見えた。
それほど大きなトンネルではないのだ。十五メートルあるかなしか、人が二人並んで歩ける程度の幅と広さだ。
だがエリはトンネルの向こう側に行ったことがない。
この先は誰も住んでいないと聞いていたし、辺りにはなんとなく、近寄りがたい雰囲気があった。
――何故かこの先に人が立ち入ってはいけないような、そんな雰囲気が。
「……」
そのトンネルの前に立ち、
「……よし!」
エリは気合いを入れると、意を決して中へと入っていった。
トンネルはコンクリートではなく、岩盤を人力で掘った後があった。一言で言うと古い。
トンネルを無事にくぐり抜け、エリは辺りを見回した。
トンネルから出ると山に近いせいか薄く霧が立ちこめていた。
幸い、前が見えないくらい濃い霧ではない。少々見通しが悪い程度だ。
足下は砂利が敷き詰められていた。砂利道の両脇は、背の高い雑草が生い茂っていた。多分ススキかチガヤだ。
同じイネ科の雑草で、穂が伸びる秋は見分けやすいが、夏は違いが分かりにくい。エリにはなんか雑草あるなくらいしか判別出来ない。
十メートル先くらいに小さな橋が見える。住職の言った通りだ。
エリは砂利を踏みしめ、橋に向かって歩き出した。
正直もっと荒れ果てているかと思ったが、石で出来た橋は特に壊れていないようだった。
橋の下には小川の水が流れている。
寒梨村で「人っ子一人居ない」のはおかしなことではないし、草ぼうほうもよく見慣れた景色だ。
つまり拍子抜けするくらい寒梨村らしい普通の光景が広がっていたが、やはりエリが住んでいる『下』とは少し雰囲気が違う。
何とは上手く言えないが、『下』に漂うのんびりした人や生き物の営みは薄く、凜と冴え冴えした空気が漂っている。そんな風に感じた。
もう、ここに誰も住んでいないと聞いているからそう思うのかもしれないが。
「……一つ目の橋」
エリはそう呟いて、橋を渡った。
渡り終えると、目の前に二つ目の橋が見えた。
どうやらエリが今居る場所は川の中州のようだ。
小さな橋が二つ、すぐ連続して架けられている光景は田舎では割とよく見かける。
山が近い裾野の町では、川は網の目のように細かく枝分かれして流れる分流になることが多い。そのため大きな一つの橋を架けるのではなく中州を使い、二つの橋に分けるのだ。
二つ目の橋を渡ると、目の前には土を踏み固めたような道と、古い和風の白塀があった。
塀は高く、エリが今いる場所から塀の中の家は見えない。
昔のお屋敷街ぽい造りだ。とエリは思った。
今の寒梨村からは想像も出来ないが、この辺りは昔はすごく栄えていたそうだ。祖母のキヨ子から聞いたことがある。
もっとも当時八十過ぎのキヨ子の実体験ですらなく、キヨ子の親から伝えられた百年以上昔のことだという。
『上』のこの辺りはその頃建てられた家々なのだろう。
つまり、どの家も築百年以上。
塀は立派だが、中の家がどうなっているかは分からない。木造家屋は保存状態が良いと百年以上保つらしいが、人が居ないとあっという間に痛んでしまうそうだ。
エリは手帳を取り出し、住職から聞いた言葉を大声で言った。
「『大屋の家に用があって参った。私に手を出したら神鳴寺の坊主が黙っておらんぞ』」
もちろん、返事はない。あったら怖いが、ないのもちょっと怖い。そして恥ずかしい。
「えーと、『橋を渡ったら左に行け』ね」
沈黙に耐えかねてエリは一人ごちると、早歩きで先に進む。
「『次の角を上に進め。突き当たりを右に折れ、垣根のある屋敷の横を通り……』」
エリは言われた通り、歩いた。
しばらくは特に何事も起こらなかった。
いきなり蛇が出てきたりもしないし、変な虫も飛んでない。順調だなと思いながら、歩いていたその時。
「エリ……」
誰かがエリを呼ぶ声がした。
思わずエリは立ち止まった。
「エリ……」
優しくて、のんびりとした女性の声。聞き慣れた、でも今は遠いあの声。
声は、ずっと昔、いつもそうしていたようにエリを呼んだ。
朗らかに、何でもない感じで。
「エリ、こっちよ」
『こっち』は住職から聞いた『突き当たりを右』ではなくて突き当たりを左に行く方の道だ。
住職は言った。
「何を見ても聞いても決して道からそれるな」と。
でもエリは立ち止まった。
そして声のする方に向かって歩き出した。
だって、それは、ずっと聞きたくて、もう聞けないと思っていた人の声だから。
「……お母さん……」
***
「エリ、こっちこっち」
エリは声のする方に向かってフラフラと歩いて行く。
だが、その時。
「きゃっっ!」
とエリは悲鳴を上げた。
顔に突然何かネバネバしたものがひっついてきたのだ。
「えっ、何?」
エリは思わずそれを振り払った。
「これって、蜘蛛の糸?」
エリは蜘蛛の巣の中に顔を突っ込んだようだ。
「うわー」
むちゃくちゃ不快な感触にエリは思わず二、三歩下がり、そしてふと、思い出した。
「そういえば、住職から『何を見ても聞いても決して道からそれるな』って言われてたっけ……」
エリは「いけないいけない」とあわてて元来た道を戻る。
そしてエリはそっと振り返った。
声は、何だったんだろうか。確かに聞いたはずだが、今はもう聞こえない。
不思議な体験に、エリはもう一度顔を手で拭おうとして、凍りついた。
左手にでっかい蜘蛛が乗っている。
「うわわわっ」
と悲鳴を上げて振り払い、ついでにエリは持っていた荷物も放り出してしまった。
蜘蛛は無事に地面に着地すると、その場を動かない。
エリは荷物を手提げの鞄に拾い上げながら、蜘蛛と目があった……ような気がした。
「えっと、もしかして、助けてくれたのかな?」
返事はなかったが、じりっと蜘蛛はエリに近寄り、前脚の1本が、開いたまま地面に落ちたエリの手帳の上で止まる。
その文字は。
「神鳴寺?」
『神鳴寺』の『神』の文字の上、次に蜘蛛は『次の角を上に進め』の『角』の文字に脚を置いた。
「角?」
そして『離れは門をくぐり』の『く』。
「く」
そして最後は住職の忠告、『決して道からそれるな』の『し』の文字。
「えーと、しんかどくし……? 違うな、『しん』じゃなくて『かみ』かな? 『かみかどくし』じゃなくて、『神かくし』、えっ、あれ、神隠しなの?」
神隠しは子供などが不意に行方不明になる現象のことだ。そのまま行方不明だったり、後日発見されることもあるが、とにかく不可解な状況で姿を消すので、天狗や神など超自然的な存在の仕業と恐れられている。
エリはその神隠しに遭いそうになったらしい。
もしかしたら、この辺りに住む人がエリに呼びかけた?
エリは一瞬、そう考えたが、『それはない』とも思う。
見知らぬ住人がどうしてエリの名前を知っているのか、そしてあれは間違いなくエリの亡くなった母親の声だ。
絶対あり得ない。
あのままついて行ったらどうなっていたのだろう。と考えて、エリはぶるっと震えた。
「はっ、早く、大屋さんちに行こう」
よく分からないが、ここはエリの手に負える場所ではなさそうだ。
エリは手帳を拾って立ち上がると、肩に蜘蛛が乗った。
「えっ、一緒に行くの?」
蜘蛛は返事はしなかったが、エリの肩にしがみついている。
通常の精神状態だったら、『でっかい蜘蛛、超怖い』だが、今は蜘蛛でもいいから一緒に居て欲しい気分だ。
「よし、じゃあ一緒に大屋さんちに行こう!」
風邪を引いたので数日休みます。再開まで少々お待ちください。後五話から十話くらいで第一章が終わります。最後までよろしくお願いします。




