10.寒梨村村史異伝
井村は肝心なところを忘れていたが、彼女の話を聞いて、エリは一つ、思い出したことがあった。
「どうもありがとうございました」
「ほい、気をつけてなぁ」
エリは井村の家を出たその足で、村役場に向かった。
目的は、旧村長室である。
村長室には村長の執務机の他、古めかしい応接セット、そして壁にこれまた古めかしい鉄製の大きな本棚が置いてある。
本棚には村に関する古い資料が並んでいた。
エリは片付けの時、それらの本に気付いた。
ざっと見たところ、直射日光が当たらない場所の上、ガラス窓がはめられていたせいか、資料は黄ばみはあるが、状態良く残っている。
虫はいなそうだったので、とりあえず、村長室は現状維持。
ロビーの片付けを先行して、本棚の整理は後回しにすることに決めた。
エリは、その『後回し』にした本棚の背表紙を順繰りに眺めた。
「えっと、確かこの辺りに……、あっ、あった」
本棚に並んでいたのは、村の村史など、この寒梨村の郷土資料本だ。
村史は村の成り立ちや時代時代の産業、大きな出来事――古くは村内の寺や社が建立されたから、小学校などの学校などの創立や廃校まで――が記されている。
その中にエリは妙なものを見付けたのだ。
タイトルは、『寒梨村村史異伝』――。
村の風説や言い伝えを集めた伝承集らしかった。
活字印刷でしっかりした装丁の『寒梨村村史』と違い、『異伝』の方はちんまりと薄い。書籍というより冊子に近い造りだ。
奥付を見ると一般書籍ではなく、明治時代に村で編纂された書物で、言うならば素人が書いた同人誌である。
文字は全て手書き。達筆過ぎて読みづらい。
イラストも同じ作者が書いたのか、筆で書かれた古風なもので、なんだかすごく古そう。
「この本になら、何か書いてあるかも」
今日は一日色々あったので、もう時刻は夕方だ。
村長室の蛍光灯は付け替えてないので、日が暮れると部屋は真っ暗になってしまう。
エリは『寒梨村村史異伝』を家に持ち帰ることにした。
「えっと夕ご飯は……っと、あちゃー、買い出し行かないと何もないなぁ」
エリは冷蔵庫を開けて思わず呻いた。
一週間ほど前に市に栗原に会いに行った時、ついでに買い出しもしたが、よく考えずに食材を使ってしまったので、食べるものがあまりない。
「お祖母ちゃんなら二週間持たせてたけど……」
とガッカリしたが、エリは寒梨村に来るまでは、近くにスーパーもコンビニもある便利な都会暮らしだった。
上手くいかないのは経験の差だろう。
とりあえず、冷凍しておいた作り置きのハンバーグ、同じく冷凍ご飯を解凍し、その間に、三つ葉とシメジとしいたけと油揚げの煮浸しを作る。
後は鮭の切り身を焼いたものと、ワカメと豆腐の味噌汁。それと、「持って行きなー」と井村がくれた菜の花のゆず味噌和え。
ささっと作った夕食を手早く食べた後、エリは持ち帰った『寒梨村村史異伝』を読んでみることにした。
果たして『狸坂』のことは乗っているのだろうか?
「おっ、あったあった」
狸坂の由来は、井村から聞いたものとほとんど同じだった。
~狸坂~
いつ頃からか神鳴寺の前の坂に住み着いた狸は坂に登る人を転ばせて食べ物を奪う、そんなぐうたらで悪い狸だった。
悪さが過ぎて、寺の住職がこの化け狸を叱り飛ばした。
住職に調伏された狸は、心を入れ替え、坂を守る役目を預かった。
坂で人が転ばぬように見張り、転びそうになっても狸の妖力で不思議と怪我はしないらしい。
いつしか人はここを狸坂と呼ぶようになった。
ぽんぽこぽこぽこ、とどこからか腹太鼓の音が聞こえていたら、狸がそっと見守っている合図だそうだ。
ただ、この狸、かつては人から奪って食べ物を食べていた罰が当たり、すっかり腹が弱くなってしまった。
そのため時折、腹痛に苦しむという。
狸は苦しみのあまり、坂を通る村人にまで、腹痛を起こしてしまうそうだ。
狸の腹痛を治すには、ドクダミの葉っぱと澄んだ井戸水を備えてやると良いと言い伝えられている。
「ドクダミの葉っぱと水!」
狸の腹痛を治す方法が分かった!
***
エリはその日は村役場を開けた。
そして午前中は片付けの続きに勤しんだ。
現在村役場に来る村民は一ノ瀬と鴫原だけだ。
彼らは決まって午前中にやってくる。
昼まで待ったが、二人は姿を見せなかった。
念のため、エリは役場で昼食用に持ってきた、梅おにぎり、おかかおにぎり、卵焼き、タコさんウインナーのお弁当を食べ、一時過ぎに役場を締めた。
台所の蛇口をひねり、持ってきた大きめの水筒に水を入れる。
その後、エリが向かったのは、村役場横の空き地である。そこでドクダミの葉っぱを摘んだ。
エリは村の見回りを兼ね、再び狸坂に行くつもりだ。
エリの中で率直なところ、『許すまじ、化け狸!』みたいな気持ちはある。
というか、そもそも化け狸なんていない。全部気のせい。
だが、腹がすごく痛かったのは事実である。
化け狸は、坂を通る人間達に腹の痛みを『移している』という。
それなら狸自身も相当痛いはずだ。
それはちょっと、なんだか気の毒な気がした。
村役場を出たエリは東にある狸坂方向には向かわず、まず西に向かい、家の近くのお地蔵様に拝んだ。
「お腹が痛くなりませんように」
三度目はイヤ、絶対。
験担ぎの後、エリはそろそろと坂のたもとに行く。
あまり気にしたことがなかったので今まで気付かなかったが、そこには高さ八十センチくらいの『狸坂』と書かれた石柱があり、その横にレンガくらいのサイズの石の台座が置かれていた。
台座の上には誰が備えたのか、古ぼけたおちょこが乗っていた。
エリは出来るだけ坂から距離を取りながら、まずおちょこと、ついでに台座が汚れていたので持ってきた水で綺麗に洗う。
次におちょこに井戸水を注いだ。
そしてドクダミの葉っぱをおちょこの横に置くと、
「これでお腹を治してください」
と拝んだ。
後はダッシュで逃げた。
坂に『登らなかった』のが、良かったのか、お腹は痛くない。
役場に戻ると、もう夕方だった。
エリはもう一度役場の戸締まりを確かめ、家路についた。




