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プロレスラー養成学校の日常~メヒコと僕とルチャリブレ  作者: 佐野和哉
#2014年の松山勘十郎

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4.帰国、ファンとして。

 勘十郎さんはアメリカに遠征中だった。2005年の6月だったから僕が渡墨してすぐだった。寮生活でド新人で先輩が居なくなって一人部屋なんて今考えたら何処のどんな団体の新弟子だってあり得ないぐらい恵まれているんだが、これが多分最初のトドメだった。

 みんな気にかけてくれていたのに、それに応えられない自分がしんどかった。そしてそれを誰にも話せないまま僕の心は折れて砕けた。

 そのカケラだけずっと忘れ物みたく、あの黄色くて埃っぽい街角に置きっぱなしだ。今でも。


 アメリカに居る勘十郎さんから、何度か国際電話がかかってきた。僕がいつ、勘十郎さんに帰国を告げたのかは覚えていない。でも、帰って来てからも膝を詰めて話してくれたのは覚えている。そして一度は帰国を撤回し「やめるのやめた!」と宣言したこともあった。でも、砕けた魂には義足も付けられない、って映画の名台詞セント・オブ・ウーマンのアル・パチーノだにもあったように、一度折れた心は簡単に戻らなかった。

 生まれて初めての海外、生まれて初めての集団生活、生まれて初めての挫折。

 最後の朝は呆気なくやってきた。それまでどういう心持で過ごしていたのか、今でも思い出そうとすると胸の奥がソワソワする。

 帰る僕に、今はマスクマンになった先輩が声をかけてくれた。

「これからはファンとして、俺たちを応援してくれよ!」

 会場に応援に来てくれ、プロレスを好きでいてくれ、と言ってくれたその言葉が、青春の宝物としてずっと残っている。

 帰りの飛行機は蒸し暑かった。隣の席はメキシコ人の母子で、おばあちゃんと娘さんだった。僕を気に入ってくれたのか、サノ、サノと声をかけては「ニホンゴでコレは何て言うんだ?」「ビールを頼んでくれ」「コレ(機内食の和風料理)はなんだ?」と質問をしてきた。僕もそれに応えているうち、寂しさや悲しさや後悔を胡麻化すことが出来た。

 あのおばあちゃんには今でもひそかに感謝している。

 じゃなかったら、僕は帰りの十数時間ずっと泣いてたと思う。


 勘十郎さんとは、その後もメールのやり取りをしていた。メキシコから帰国したときには新宿で会ってカラオケしたり試合も見に行ったりしていた。一時期みちのくプロレスにも出場していたけれど東北は流石に遠かった。それが大阪プロレスに出るようになったときから、年に一度とか数年に一度は試合を見に行くようになった。メールからSNS、そしてLINEに移り変わり、今もお誕生日とか試合を見に行くときには連絡するし、こういった文章を書かせてもらうときにも連絡を入れている。

 基本的に快く応じてくださるのは、あの頃から変わらない。


 2014年にはもう一つ大きな出来事があった。

 それが勘十郎さんの故郷、新潟への凱旋公演だ。


 僕は生まれて初めて新潟へ向かうことにした。勘十郎さんの晴れ舞台を見届けるために。愛車ステップワゴンに乗り込んだのは試合前日の昼過ぎ。15時くらいだったか。一路、愛知県豊橋市から新潟県の田上町まで。一体何キロあったのか。

 中央道の土岐で事故渋滞に巻き込まれ、その後は延々と長野県を走り続けた。長野県って本当に長い!

 こんなところを武田信玄は馬で走り回ってたのかと思うと戦国武将ってすごい。

 そしてその武田の宿敵、上杉の本拠地へ。車中泊した妙高サービスエリア(だったと思う)は夜もう肌寒かった。


 目覚めてまた走り出す。田上町に着いてもまだ少し時間があった。役場や田んぼのあぜ道を回ってから体育館の駐車場に向かうと辺りには立て看板に貼られたポスターがズラリ。車を停めて散策。昔ながらの酒屋さんや狭い路地、県道、のどかな風景はきっと勘十郎さんが育ったころとあまり変わらないのだろう。でも生まれ育った人からしたらきっと、変わってしまったところも沢山あるのだろう。


 やがて試合開始が近づくと続々と観客が詰めかけてきた。駐車場には警備員が立ち並び、体育館と中学校に続く坂道には幟が立てられている。そこをみんなしてぞろぞろ上がっていくと体育館の前にも人が集まっており、今や遅しと開場を待っている。このなんともいえない高揚感に包まれた雰囲気が堪らない。

 町の一大イベントの様相を呈した松山勘十郎凱旋公演はメンバーも豪華だった。アジャコングさんや恩師ウルティモ・ドラゴン校長をはじめ、この日限りのまさにプロレス祭。

 僕はこの日初めてめぃりぃさんという選手を見た。はじめは懐疑的だったが、可憐さ、可愛らしさと裏腹に、そのあまりのやられっぷりの良さにすっかり感服してしまった。

 それ以外にもご当地新潟プロレスの選手が奮闘したり、第一試合には現在の大阪プロレス社長、ゼウス選手も登場。筋骨隆々の肉体美で観客の度肝を抜いていたりと盛り沢山。


 もちろん松山勘十郎さんは最後の最後、大トリでの登場である。

 この日を待ち望んでいた人々。この日のために集まった人々。そのなかでひと際、大きな歓声で迎えられた千両役者のご当地凱旋。

 僕は最前列正面の座席で勘十郎さんの入場を見つめながら誇らしかった。これが僕の先輩であり、最も身近なプロレスラーの晴れ舞台。こんなに多くのお客さんが待ち望む選手が僕の先輩なんだ。

 試合後には校長が「俺の生徒としてこんなに頑張ってくれて、ありがとう!」と感謝を伝えると感動の拍手が巻き起こった。

 勘十郎さんは何時でもお客さんを一番に考えている。他のプロレスラー同様、そして彼なりの哲学をもって。入場も退場もしっかり魅せて練り歩く。僕は思わず立ち上がって引き上げてゆく先輩を見送った。

 この日に撮ってもらった写真は今でも現像して部屋に貼っている。毎日、身支度をするときに見ている。


 やがて撤収が始まると、それすらも興味津々で子供たちが集まっている。選手たちはそれを邪険にすることもなく、ぐらんハニワ選手に至っては「ほぉ~ら、こうやってリングを片付けるんだよお!?」とロープを外したり、それを「よいしょ!」と持ち上げて見せて喝采を浴び、当日のリングアナウンサーを務めていたNaokiさんはカッコいい!と奥様方から人気の的だった。

 お客さんのいなくなった会場に、まだ僕は一人で残っていた。帰るのが惜しいのもあったが、別に急ぐ必要もない。それよりも最後に一声かけてから帰りたかった。

 そこへタクシーがやって来た。校長がお帰りになるところだった。思わず駆け寄り挨拶をしようとしたら

「あれっ!? お前……そうか。勘十郎と仲良かったなお前。な」

 覚えていてくださった。

「新潟だっけか」

「いえ、愛知から来ました! 豊橋です」

「豊橋い!?」

 名古屋出身の校長が素っ頓狂な声を出した。

「お前もプロレス、好きだな!」

「はい!」

 タクシーに乗り込む校長に、あの頃みたく「お疲れ様でした!」と大きな声で礼をした。しばらく頭をあげないでいて、次に見た時エントランスは空っぽだった。赤いテールランプが少しだけ見えた気がする。

 それが世界を飛び回り風のようにやって来て去ってゆく、伝説の龍の尾ひれの最後のひとひらだったのかもしれない。

 

 勘十郎さんは開場時と同じ物販のテーブルに座って何やら作業中だった。頃合いを見計らって声をかけた。感極まっていたのも束の間、まだこの公演の最後の片づけまで綺麗に終えなくてはならない。その使命と義務感で疲労困憊の心身を動かしているようだった。

 僕も高揚していたが、勘十郎さんも気分が昂っていた。帰りに労いのメッセージを送ると、やがて返事が来た。

「拙者たちは永遠にウルティモ・ドラゴン校長の生徒だ。一緒にずっとプロレスを好きでいよう!」

 と書いてくれた。僕は元よりそのつもりだし、それは今も変わっていない。


 これが9月。そして旗揚げ宣言は11月だから、その間か前に旗揚げすると耳打ちしてくれていたんだと思う。なんにせよ、僕は皆さんよりも一足早くそれを知っていた。

 なぜか。ある使命のためだ。



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