2.玄関あけたら5秒でギャバン
プロレスラー養成学校・闘龍門MEXICOの道場。
僕と勘十郎さんの始まりの地であり、モニュメント。
成田空港を発ってバンクーバーでのトランジットも含め約15時間。日付変更線を跨ぎ、現地での夜も夜中までかかってやっとのことでナウカルパンの寮までやって来た。
数名の同期、引率の川畑さん、出迎えの補佐に現在のアミーゴ鈴木さん(当時は別のリングネームだった)も来ていたと記憶している。同じ飛行機には、なんとあの初代タイガーマスクの佐山聡さんも乗っていた。
空港からバスで寮までやって来て、みんなそれぞれ割り振られた部屋に向かった。当然、先輩方と相部屋である。各部屋のドアに名前を書いた紙が貼ってあった。僕の名前は4階にあった。4階建ての建物だから最上階だが、勿論エレベーターなんてものはない。階段を上がって正面が4人部屋。その反対側で道路に面した3つの2人部屋のうちいちばん右の部屋のドアに佐野と貼られていた。
そのドアの向こうで待っていたのが松山勘十郎さんだった。開口一番
「よおー! 君が佐野くんか。よろしく!」
と快活に出迎えた次の言葉は
「特撮、好きなんだって? ギャバン歌える?」
「ハイ、歌えます!」
いや流石に僕も「佐野と申します、よろしくお願いします!」ぐらいは言ったはずだと思うのだけれど、それ以上に初対面から5秒で宇宙刑事ギャバンの主題歌を二人して熱唱した挙げ句に寮長だったアミーゴ鈴木さんから「こら、うるさい!」と早速お叱りを受けたことが強烈過ぎて、20年以上たった今でも忘れないでいる。たぶん走馬灯でまた歌う。
それから、およそ3ヶ月。生まれて初めて海外に出て、住み慣れた家も街も出て、志を同じくする生まれも育ちも違う仲間や先輩方と暮らした。いま思えば未熟というほかないが、あの頃はいっぱいいっぱいでアップアップしていた。
当時から文章を書くことが趣味だった僕は成田空港の売店でノートとペンを買い、毎日それで日記をつけていた。最初は浮かれながら真面目ぶってるが、だんだん心が折れかかって、どっかでポッキリいっている。
そしてそのとき、頼みの勘十郎さんはアメリカに居た。
フィラデルフィアのCHIKARAという団体から招聘され現地で試合をしていたのだ。その出発の日のこともよく覚えている。
慣例として遠征に向かう選手が出立する時にはみんなで寮の外まで見送りに行く。この日も朝早くからタクシーに乗り込む勘十郎さんを見送り、そのあと部屋に戻っていた。
その日も練習があったと思う。基本的に日曜日以外は毎日何かしらのトレーニングがあったから、それが終わってシャワーを浴びて部屋に戻っていたら、玄関のブザーが鳴った。
そして憮然とした表情の勘十郎さんが帰ってきた。今頃は飛行機かと思っていたのに、チョコレートブラウニー片手に部屋へ入るなり
「ペオノノがよぉ、ビザ取ってなくてよお……!」
とご立腹。そりゃそうだ、万障繰り合わせて勇躍出かけたのに空港で追い返されたんだもん。ちなみにペオノノとはホセ・ペオノノさんという、闘龍門MEXICOの事務員さんだ。元アマレスの猛者で大手団体のフロントだった人で当時は校長の片腕として現地でのサポートをしてくれている……のだが、流石はメキシコ人。ぽっちゃりして陽気なオッサンで割とテキトーな人でもあった。この時は、そのなかでも大きめのポカではあったが。
結局やることもないので二人でブラウニーを食べ、そのあとは近所のファミレスで〝プロレスラーしりとり〟や〝入場テーマ曲あてクイズ〟をしていた。
寮から徒歩5分ほどのところにあったファミレスはVIPSというお店で、日本と似たようなシステムだった。
が、こういうちゃんとしたお店の食べ物は比較的割高であるので、専らコーヒー、それもおかわり自由のを飲んでいた。しかもコーヒーのおかわりをくれるたびにテトラパックの牛乳も一緒につけてくれるので大変お得。加藤登紀子さんの歌じゃないけど、コーヒーを一杯で一日……なんてこともあった。まあ今まさに「時には昔の話を」しておりますけれどもハイ。
勘十郎さんは練習こそ厳しいけど、それ以外は実に優しいと言うかのんびりしていて、オタク気質のお兄さんだった。今でこそ千両役者として堂々たる風格であるが当時は誕生したばかりで地上の環境に適応している最中であったためか顔の模様や衣装も今に比べると控えめだった。
現地での暮らしも慣れたもので、僕の目覚まし時計やコップなど日用品の買い物に連れて行ってくれたり、屋台のトルタスやタコスを一緒に食べに行ったり、件のファミレスやコンビニと時間を見つけては沢山話して笑ってくれた。




