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プロレスラー養成学校の日常~メヒコと僕とルチャリブレ  作者: 佐野和哉
#2014年の松山勘十郎

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21/26

1.2015年の日本橋より

 はじめに。


 僕の先輩に、松山勘十郎さんというプロレスラーが居ます。

 選手として定着した大阪に自らの理想とするプロレスを体現するべく、大衆プロレス松山座を旗揚げし2025年には10周年を迎えました。

 実は、その旗揚げから数年間。僕も少しだけ活動のお手伝いをしていました。

 時に悩み、時に焦り、だけどいつも笑い、そして必ず優しい。

 それが僕にとっての〝プロレスラー・松山勘十郎〟です。


 なぜ一介のプロレスファンである僕がプロレス団体のお手伝いをし、謎多きプロレスラー・松山勘十郎さんを身近に感じていられるのか。

 松山勘十郎さんがメキシコでデビューしてから20年を超え、松山座も旗揚げ10周年を越えた今。初めてそのことを書きます。世界一不思議なプロレス団体の、妖しく楽しく激しいプロレス。その舞台裏。


 ちょっとだけ覗いてみてやってください。

 2015年2月1日。22時か23時を過ぎたあたり。

 僕は愛車ステップワゴンで大阪・日本橋のインデペンデントシアター2ndから、生野区某所を目指して走っていた。助手席にはプロレスラー・松山勘十郎さん。そして後部座席は全てフラットにして、椅子の上も下もハッチバックにも詰め込める場所には全て大小なんらかの荷物を詰め込んで、それはまるで夜逃げみたいで、やがて鶴橋駅近くの交差点で赤信号に掴まった。左手でハンドルを握りながら右手で胸ポケットのフリスクを取り出してスライドさせ、2粒いっぺんに放り込む。

「佐野」

「はい」

「拙者にもくれ……」

 疲労困憊の勘十郎さんは堺筋から生野までの僅かな時間でも(大量の荷物に阻まれているとはいえ)可能な限り椅子を倒しカラダを横たえていたが、音に気づいて目を閉じたまま手を差し出した。

「どうぞ」

 分厚く少し冷えた手のひらに僕はフリスクをやはり二粒シャカシャカと差し出した。

「ありがとな……」

 

 この日は勘十郎さんにとって一世一代の勝負の日だった。それも三日間続けての大勝負。自身のプロレス団体、大衆プロレス松山座の旗揚げ公演三連戦の最終日。

 今そのすべてを終えたあと会場から荷物を運び出し、それを僕のクルマに積み込んで帰途についていた。まだこの大荷物を事務所に詰め込み直すという作業が残ってはいるのだが、一先ず公には今日までの全てが片付いたことになる。


 松山勘十郎さんが大衆プロレス松山座旗揚げを僕に告げたのは2014年のある日だった。その当時所属していた団体が解散を発表し、各選手は移籍やフリー転身など様々な動きを見せていた。僕は勘十郎さんも自身のカラーに合った団体へ移籍するものだと思っていた。だけど全く予想外の答えを携えた便りが届いた。

「自分の団体を旗揚げするから! その名も〝大衆プロレス松山座〟だ!」

 そしてその言葉通りに準備を進めていき、遂に大々的な発表となったのが2014年11月に大阪・生野区民センターで行われた特別公演・松山流女子祭典まつやまりゅうじょしのさいてんだった。


 松山勘十郎さんがプロデュースする女子選手を主体とした公演(松山座では大会と呼ばず、公演と呼ぶ)であり、我々ファンにとっては年に一度のお楽しみだった。このときは第三回目の開催であり、会場を梅田から生野区民センターに移しての一発目でもあり、松山座正式旗揚げ前に唯一行われた空白期間での公演でもあった。


 そしてこの日が僕と松山勘十郎さん、たったふたりのプロローグだった。

 前日、愛知県豊橋市から高速道路を幾つも乗り継いで大阪入りした僕は生野区某所の松山勘十郎事務所から徒歩2分のタイムズにクルマを停め、初めて事務所にお邪魔した。何しろ大阪の下町である。路地が狭くて自転車が多い! おっかなびっくりハンドルを握り、どうにか辿り着いた僕を労ってくれた勘十郎さんは、いつも通り優しかった。

 だが、瞳の奥底には既にメラメラと揺らめくものがあった。

 なにしろ翌日の対戦は当然メインイベント。しかも相手は当時最強の一角であり〝女子プロレス界の横綱〟の呼び声も高い里村明衣子さんだった。2025年に引退するまで数々の死闘と伝説を残した偉大なプロレスラーは勘十郎さんと同郷であり、また憧れの人だった。


 今だから正直に言うが、長いお付き合いの中で、あれほど怖い顔をした勘十郎さんを見たのは今のところあのときだけだった。それほどピリピリしていたし、どうにか平常心を保つべく自分自身と必死で戦っているようでもあった。

 ご自身の名のもとに行う公演であり、憧れの選手との一騎打ちであり、翌年に旗揚げまで控えている。これで余裕カマしてたらそれこそ逆におかしいとも思うくらいの極限状況だったのだ。

 挨拶もそこそこに早速、荷造りを始めた。勘十郎さんはと言えばギリギリまで事務作業。チケットの管理まで自分で行うため机の前にかじりつきだった。

 思えば選手と観客という関係性に落ち着いて以来、こうして同じ部屋の中で一緒に過ごすというのも随分久しぶりのことだった。そう思ったのは僕だけじゃなかったようで、昔話にも花が咲いた。あのときはこうで、あれはああで、そうそうそうだった……気がつくと手が止まっていることもしばしば。


 時計の針をさらに20年ほど戻す。あれは2005年5月のメキシコ合衆国ナウカルパン州ナウカルパン市ハルディン。アレナ・ナウカルパンというルチャリブレ専用の常設会場と古い床屋さんに挟まれた4階建ての建物。


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