<9・わすれる。>
自分が見てしまった光景を、ティムはにわかに信じることができなかった。どこか虚ろな目でふらふらと廊下を歩くルーサーを訝しみ、後をつけ。彼がルイーズの部屋を入るところまでしか、正確には見ていない。しかし、髪を掴んで引きずり込まれた様子にくわえて、ドアに耳を押し当てて聞こえてきた音と声。それだけでも、何が起きているかを察するには十分であったのである。
ルーサーは、姉に虐待を受けている。あるいは、折檻と呼ぶべきだろうか。
しかも本人がまったく抵抗する様子もなく、ただただ彼女に黙って従っているところを見るに――これは本当に幼い頃から、日常的に行われてきたものと考えて間違いないのだろう。
――元々、俺はルイーズ様のことが好きじゃなかった。
ルーサーが“お姉様にも素敵なところはあるんですよ”とにこにこしながら言うので、表立って口にはしてこなかったが。ルイーズのワガママっぷりは目に余ることが多かったし、どれだけ家と他人のために必要なことであっても自分が嫌と決めたことは絶対にしない頑固さは、多くの使用人達の手を焼いて来たのである。同時に、それで皆の言う通りにせずに失敗した時、彼女はすぐに癇癪をして他人に八つ当たりをするのだ。特に、ルーサーがその八つ当たり対象になることが多かったのは間違いない。何度も何度も呼び出され、彼女の愚痴に延々と付き合わされている姿はティムも何度も見てきたものだ。
でも、まさか。
それがただの暴言に留まらず――暴力にまで及んでいるだなんて、どうして想像ができるだろう。
確かに、彼の歩き方がぎこちない時もあったし、腕に痣らしきものがあったことも見たことはある。でも、本人があまり運動神経の良い人間でなかったこともよく知っていたし、本人も“ついドジって転んじゃったんです”としか言わなかったので深く追求しなかったのだ。ルーサー本人が、嘘偽りを口にしているようには見えなかったからというのもあるだろう。
――実際、折檻を受けているにしては、ルーサーの様子もおかしいのは確かだ。
姉に、妙に従順すぎるとは思っていた。そもそも、本人も不名誉を被るしどう見ても姉のためにさえなっていないのに、テストやお見合いで入れ替わりを許容するのがおかしいのである。それが、姉のことを思ってとか、姉の押しが強いからというだけでは説明がつかないとも感じてきた。だから、今日も思い切って“洗脳”されているのではと本人の前で口にしたのである。
だがしかしまさか、ここまでとは。
自分が想像していた“洗脳”よりも遥かに厳しいこの状況に、ティムは眩暈を覚えざるをえない。同時に、悔しくてたまらなかった。親友がこんな状況に追い込まれているというのに、何故何年も自分は気づかなかったのだろう。
――折檻が始まったのはいつだ?この様子だと、少なくとも一年や二年前じゃない、よな?
部屋に飛び込んでいって彼を助けることも考えたが、歯を食いしばって我慢した。自分が使用人だから、一応は“お嬢様”であるルイーズに逆らうのが難しいというのもあるがそれだけではない。ここでルーサーを助けても、恐らく根本的な解決にならないだろうというのが容易く想像できたからである。
この部屋に向かう道中、ルーサーの様子は明らかに妙だった。酒に酔っているわけでもないのに千鳥足で、視線は宙を見つめてふわふわしていた。まるで夢遊病者のようだ、という言葉がこれほど相応しい光景もない。明らかにあれは、精神的に抑圧されているからだとか、姉の暴力に怯えて逆らえないからといったことだけでは説明がつかないだろう。何か、薬物でも使われたとしか思えない。
もしそうならば、一体どうやってルイーズはルーサーにその“薬”を恒常的に摂取させていたのか?という疑問が浮上する。そのルートを突き止めない限り、見かけたタイミングでティムがルーサーを止めても意味はないだろう。それこそ、自分の眼が離れた瞬間にルーサーがふらふらと姉の元に向かってしまうことは目に見えているし、そもそもその一回を阻止したツケが次に回るのも容易く想像がつくからである。
同時に。もう一つ気になるのは、ルーサーのこの状況を果たして他の使用人は知っていたのか?ルーサーの両親はどうなのか?ということだ。声を出させないようにしていたあたり、ルイーズ本人は“誰にもバレないように”折檻を繰り返してきたつもりであるのは想像がつく。実際、ティムも今日まで気づかなかったのは確かだ。
ただ、彼がそれとなく隠していたとて腕の痣は目につくだろうし、それこそ今日のようにふらふらと姉の部屋に向かう様を他の誰にも見られていなかったとは考えにくい。もし使用人や彼の両親までもが“グル”だった場合、ティム一人でルーサーを助け出すのは極めて困難と言わざるを得なかった。
――そもそも、本人が“自分は折檻を受けていないし洗脳もされていない”と思い込んでたら、どうしようもない。……とすると、どうにかして本人の洗脳を解く方法から探さなければいけないけれど。
幸い、とっかかりが無いことはない。
ルイーズが弟を部屋に連れ込むその際、特徴的な甘ったるい香りがした。はちみつに青臭さ、薬臭さを足したような妙な香りである。あれがなんらかの香水や薬品、草花の類であるならば、同じ香りのものを探し当てなければいけない。ティム自身物覚えは悪くない方なので、暫くはこの香りを頼りに探すということも不可能ではないだろう。
同時に、平日の朝昼はルイーズもルーサーも学校に行っているはずである。その時間帯に、ルイーズの部屋を探索することも、一応使用人の自分なら不可能ではないはずだ。屋敷の主人たちの部屋を掃除するのも、自分達の仕事であるのだから。うまくいけば、何か手がかりが見つかるかもしれない。
『なんだかんだ言って、お姉さんのこと大好きだよなあ、ルーサーは』
少し前に、己がルーサーに何気なく言った言葉を思い出して歯噛みした。
何が、“お姉さんのことが大好き”だ。何も知らなかったくせに、何も見えてなかったくせに、自分は。
――ルーサー。お前は、お互いを愛してると思ってるのかもしれねえよ。姉のためにできることをするのが当然で、それを姉が咎めるのも当たり前だと思ってるのかもしれねえ。でもな。
会話は、全て聞こえていた。
ユリシーズを愛していると言った、ルイーズのどこまでも歪んで身勝手な“愛の言葉”も。
『ユリシーズ様のように、懐深くてお金もあって、美しい人と夫婦になるのが長年の夢だったわ。しかも、あのお方はエーメリー子爵家の長男……つまり跡取りなの。この田舎臭い家を捨てて嫁ぐ理由には十分なわけ、わかる!?』
『愛してるの、愛しているの愛しているの愛しているの、ほらこんなにも!だから、あの方にも私を愛して貰わなければ釣り合いが取れないのよ、ねえルーサー!お前もそう思うわよね!?』
『あの方は女性に優しいと評判だわ。きっと私のことも十分に甘やかしてくれる。必要以上に子育てや家事をやれとも言わないでしょうし、仕事をしろとも言わないでしょう。嫌な社交界に無理に出ろともきっと言わないわ。私が好きな時に好きなだけ遊び歩いていてもきっと許してくれるはず。私がしたいのはそういう結婚なの。お父様やお母様や口うるさい召使たちにぐちぐちぐちぐち、女らしくしろだのお淑やかにしろだの言われない生活がしたいわけ。そのためにはあの方に嫁いでめいっぱい愛される生活以外にはないのよ、わかる、わかるわよね、ねえ!?』
あんなものは貴族の、否――人間として真っ当な恋ではけしてない。
ルイーズが“恋”をしたのは、結局“自分を甘やかしてくれそうな理想的な男性”であって、ユリシーズではない。そして、彼女が本当に大切なのは婚約者ではなく、“そんな婚約者に愛される自分自身”でしかないのだ。
――こんなの、絶対間違ってる!
気になることは他にもある。ルーサーが言っていた、姉に関する記憶。ルイーズが、学校でいじめられた自分を助けてくれた話や、医者におぶって運んでくれたというエピソード。あれらに関しては既に、執事やメイドの仲間にいろいろと訊いて回っていた。誰も彼も、そのような出来事があった記憶はないと証言している。ティムよりもずっと長くこの屋敷に努めている執事長や、メイド頭まで同じことを言った。とすると、ルーサーだけが“姉に優しくしてもらったことがある”と思い込んでいる可能性があるということである。
もしそうならば、それは何らかの薬物で洗脳され、偽りの記憶を刷り込まれているということに他ならない。相当強力な物質であるはずだ。下手をしたら、麻薬として国に出回っているものかもしれない。
――悔しいけど、俺には薬物の知識なんてあるはずもねえ。誰か、そういうものに詳しい人はいないのか……!?
翌日。
相当手酷く折檻を受けたはずのルーサーは、いつもと全く同じ時間に起きてきて、何事もなかったかのようにティムに挨拶をした。
「おはようございます、ティム」
「え、ああ……おはよう」
周囲に他の召使たちがいないことを確認して、こっそりと小さな声で耳打ちする。
「なあ、ルーサー。お前、体は大丈夫か?」
もし。少しでも彼が、姉の虐待に負い目や苦痛を感じていて、それをはっきり自覚しているのなら。この言葉ですぐ、昨夜の折檻のことを想像するはずである。何故ティムが知っているのかと驚くかもしれないし、あるいは姉に他の人にバレたことが知られたらどうしようと怯えるかもしれない。
しかし、ルーサーは目を丸くして、本当に意味がわからないというように告げたのだ。
「えっと?大丈夫……とは、どういうことでしょう?」
「……そうかよ」
それは、ティムにとってはけして喜ばしくない、一つの事実。
――こいつ、やっぱり……。
ルーサーは、姉に折檻されている事実を忘れている。
もしくは――己が受けていることを、まったく暴力だと認識できていない。
それがどれほど異常なことかも気づかずに。




