<8・たたかれる。>
ティムは一体、何を言っているんだろう。
彼は自分の親友だ、本気で心配してくれている、というのはわかっている。彼があんなに怒ったのだって、きっと自分のただろうということも。ただ。
――洗脳されてるって、そんな馬鹿な。
見慣れた屋敷の廊下が、妙に歪んで見える。真っ直ぐに伸びる、姉の部屋へと続く道。昼に、夜にと彼女に呼ばれてその部屋に向かうのはルーサーにとって日常茶飯事だった。自分とルイーズには、秘密の合図というものがある。あの不思議な花の香りがしたら、部屋に来いというサインなのだ。幼い時からそれは変わらなかった。ティムが仕事に行くのと同時に部屋を出て、薄闇に染まり始めた空間にそっと歩を進める。
いつもこの匂いに誘われている時は妙な高揚感を覚えるものだ。足元がふわふわするような、目の前がくらくらするような。まるで羽根が生えて、空間を弾みながら前に進むボールにでもなったかのよう。心地よい、気持ちがいいと感じる。その先に待つのが、地獄であることは重々承知しているというのに。
――洗脳っていうのは、小説の中であるようなこと。あり得ないでしょう、僕とお姉様に限って。
ティムの話を聞いてから、頭に妙な棘が刺さったような感覚を覚えている。それが、いつもの“心地よさ”をどこかで邪魔していた。引き抜いてしまいたいのに、その棘が頭のどこにあるかもわからない。脳の中に埋まってしまっているものに、一体どうやって手を触れればいいのやら。ああ、きしきしと軋む音はなんだろう。脳みその中の歯車が、錆びて音を立てるような不快感。
そんなものあるはずない、と自分の中に刻まれた自分自身が告げる。
ただ視界が歪むことだけはどうしようもない。紅蓮のカーペットが、波打っているような気がする。それをぽよんぽよんと弾みながら前に進むと、壁の中からカラフルなボールが湧きだしてきてルーサーの体にぶつかってきた。痛くはない。ただ、少しばかり邪魔だ。あまり遅くなると、姉に迷惑がかかってしまう。赤、黄、緑、青、黒、白、桃、灰。それらの色とりどりのボールを押しのけながら前へ進む、進む。まさに幻想的な空間。自分は現実の世界にいながら、小説にあるようなファンタジックな空間に足を踏み入れている。ああ、耳の中でかろやかな音楽まで聞こえてきた。あれはなんだ。いつぞやの歌劇で聴いたファンファーレか。確か、姉が大好きだったオペラだ。
――あれ、さっきまで、何を考えていたんだっけ。
次第に、自分の思考に虹色の靄がかかり始める。けぶるような甘い花の匂いが強くなる。ルイーズの部屋の前まで来た。ノックを五回。早く三回、ゆっくり二回。するとがちゃりとドアが開いて、姉が顔を出す。
「今日は、少し遅かったわね」
彼女は無表情で、静かに告げた。
「何かあった?……私達の間に、隠し事は無しよ。私達は双子。秘密なんて絶対に持ってはいけないものね。特に、貴方は弟なのだから、姉に内緒のことなんてあってはいけなくてよ」
「ええ、そうですね。……ティムと少しお話をしていました。ユリシーズ様のことで」
「そう?それで?」
「ユリシーズ様と、お姉様が幸せになるのが一番いいのです。僕ではとても、釣り合わない方なのですから」
「ええ、よく分かっているじゃない」
次の瞬間。ぬっと頭に手が伸びてきて、髪を強く掴まれた。そのまま薄暗い部屋の中にひきずりこまれる。
バタン!と勢いよく閉まるドア。ルイーズはルーサーの頭を掴んだまま、すぐさま鍵を閉めたようだった。
「そう、そう、そう!よくわかっている!わかっているならさっさと、婚約を断ってきたらどうなの、ねえ!?」
活発で運動神経のいい彼女だ。ひょっとしたら、男のルーサーよりも腕力があるのかもしれなかった。部屋の中心に突き飛ばされる。途端、ぶわり、と白いものが飛び散った。部屋に敷き詰められていた白い花びらだ。甘ったるい匂いが強くなり、思わず蒸せた。嫌いな匂いじゃない。ただ、この匂いを嗅ぐと何もわからなくなる。いつもそうだ。幼い時からそう。ルーサーをこういう形で部屋に招く時、彼女はいつもこの花の花びらを床にばらまく。きっと好きな花なのだろう。何の花なのか、彼女が育てているものなのか、それさえもわからないけれど。
「ユリシーズ様のように、懐深くてお金もあって、美しい人と夫婦になるのが長年の夢だったわ。しかも、あのお方はエーメリー子爵家の長男……つまり跡取りなの。この田舎臭い家を捨てて嫁ぐ理由には十分なわけ、わかる!?」
私はあの方を愛しているのよ!と彼女は喚きつつ、倒れたルーサーの背中をガンガンと踏みつけた。ヒールの高い靴で踏まれるのは相当痛い。それでもルーサーは、悲鳴を噛み殺して耐えた。
声を上げてはいけないのだ。大きな声を上げると、姉に迷惑がかかってしまう。自分は大人しく、それこそ石像か何かになったつもりでじっとしていなければいけない。声を出して人が来てしまったら、ルイーズが悪者にされてしまう。悪いのは、彼女との“約束”を守ることができなかった自分の方だというのに。
「愛してるの、愛しているの愛しているの愛しているの、ほらこんなにも!だから、あの方にも私を愛して貰わなければ釣り合いが取れないのよ、ねえルーサー!お前もそう思うわよね!?」
「そう、です。その通り、です」
「あの方は女性に優しいと評判だわ。きっと私のことも十分に甘やかしてくれる。必要以上に子育てや家事をやれとも言わないでしょうし、仕事をしろとも言わないでしょう。嫌な社交界に無理に出ろともきっと言わないわ。私が好きな時に好きなだけ遊び歩いていてもきっと許してくれるはず。私がしたいのはそういう結婚なの。お父様やお母様や口うるさい召使たちにぐちぐちぐちぐち、女らしくしろだのお淑やかにしろだの言われない生活がしたいわけ。そのためにはあの方に嫁いでめいっぱい愛される生活以外にはないのよ、わかる、わかるわよね、ねえ!?」
ひとしきり踏みつけるのにも飽きたのか、彼女はクローゼットからそれを取りだした。恐怖心を噛み殺し、跪いた僕は両手の裾をまくりあげ、両腕を差し出す。先日彼女の“八つ当たり”に付き合った時に出来た痣がまだ残っていて痛む。あまり派手に傷をつけないで欲しかった。これが見つかると、ティムたちが心配するではないか。
ああ、そう、ティムになんて説明すればいいのだろう。
自分と姉の秘密の関係を、その意味を、彼にはきっとわかってもらえない。
「私は耐えられないの」
ビシッ!と鋭い破裂音がした。彼女が己の手に持った武器――革製の鞭で、床を叩いた音だった。
「何故、みんな私の言う通りにしないの?私の思い通りにならないの?私はこんなに美しいのに、何故、何故私の奴隷がお前しかいないのルーサー?ああ忌々しい!そのお前でさえ、私に逆らってあの人を奪おうとしている!!」
「ごめん、なさい」
「ごめんなさい、で済むなら憲兵は要らないのよ!!」
甲高い音と、灼熱。喉元まで上がってきた絶叫を、ルーサーは死ぬ気で咀嚼した。叩かれた左手首に、真っ赤な蚯蚓腫れができる。がくがくと体が震えて拒否反応を示したが、それでもルーサーは両腕を姉に差し出し続けた。ここで、腕を下ろしたらもっと姉の機嫌を損ねてしまう。腕だけで済ませて貰えるようにしなければ、次は背中を打たれるのは経験上よくわかっていることだった。背中を鞭で叩かれると、眠る時に本当に辛いのだ。腕と違って己で手当てもしづらいので、化膿しかけて大変な目に遭ったこともある。執事やメイドの手を借りられない以上、治療はルーサー本人かルイーズにやってもらうしかない。己の不始末を、姉に助けてもらうのはあまりにも気が滅入ることなのだから。
「今日は、一万回謝罪しなさい。そうしたら勘弁してあげるわ。さあ」
彼女が鞭を振り上げる。ルーサーは震えながらも、どうにか声を絞り出した。
「ごめんなさい」
右腕に、折れるかと思うほどの激痛。
「ご、ごめんなさいっ」
今度は、左肩。鞭の軌道がやや逸れたのだ。
「ごめん、なさい!」
左腕を掠めて、胸。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
右腕を弾いた鞭が、反動で頬をも叩いた。あまりの痛みに涙が滲む。泣いてはいけない。姉をこれ以上怒らせてはいけない。
「ごめんなさい、お姉様、お許しください……っ!」
ああ、自分はなんてダメな子なのだろう。双子であるのに、同じ運命を受け持つはずのルイーズにこんなことまでさせるだなんて。弟であるのに、姉を差し置いて誰かと婚約しようだなんて。それも、姉が心から愛した相手を奪うだなんて、そんな酷い話があるだろうか。
「僕は、お姉様に……お姉様こそ、ユリシーズ様に相応しい存在と思っております。でも、どうすれば、ユリシーズ様にお姉様の魅力をわかっていただけるのかがわからないのです。お姉様を愛して頂く方法が見つからないのです。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
ルーサーの懇願を聴いて、ようやく姉が鞭を振り下ろす手を止めた。まだ一万回は行っていないが、彼女も息が上がっているあたり、純粋に疲れたのだろう。
「……そうね。お前があの方との婚約を断ればそれでいいかと思っていたけれど、そんな簡単な話ではないかもしれないわね。むしろ、あの方との婚約をお前が断ってしまったら、それ以降エーメリー子爵家との関係は途絶えてしまうかもしれないわ。ただでさえ、入れ替わりがバレたせいであの一家には怒りを買ってしまっているし……さて、どうしようかしら」
何かを考えるように、その場をぐるぐると歩き回るルイーズ。彼女が床を踏みしめるたび、白い花びらが舞いあがる。ルーサーはその場で座り込んだまま、ただじっと姉の言葉の続きを待っていた。腕も体もじんじんと痛んでたまらないが、逃げ出すなんて選択肢は己にはない。そんなことをしたら、次の折檻がもっと酷くなるだけなのだから。
――折檻?……違う、これは、お姉様の怒りを受け止める儀式。双子の弟の、僕にしかできない……僕がやらなければいけないことなのだから。
ただ、それでも。これ以上痛い思いをしないで済めばいいなんて、思ってしまう自分のなんと浅ましいことか。
「そうだわ」
唐突に、彼女はぴたりと足を止めた。ルーサーの前にしゃがみこみ、にやりと笑った。そっと、彼女の白い指が僕の赤く腫れた頬を撫でる。
「そうよ。もう一度入れ替わればいい。今度は、私が“ルーサー”としてお見合いに行けばいいのよ。いいえ、むしろ“ルーサー”として結婚してしまえばいいわ。ねえ、それでいきましょう。貴方は次のお見合いの日から、私に代わって“ルイーズ”になるの」
「お姉様……」
「ええ、ええ、名案だわ。だって、先方は“ルーサー”に夫婦としての関係を求めないとまで言ってきているんでしょう?人前で服を脱がなければ、私達の入れ替わりがバレることなんかないわ。だってお父様とお母様でさえ、見た目で私達を見分けることなんかできないんだもの。ええ、それがいい。そうしましょう!そして、私がユリシーズ様に“お受けします”と一言言えばいいのよ」
さっきまでとはうってかわって優しい所作だった。それなのに、ルーサーの胸はずきずきと痛んでたまらない。
ユリシーズは、きっと入れ替わりに気づくだろう。そうなれば、また姉は傷つくし機嫌を損ねるに決まっている。今度拒絶されることがあったら、それこそ自分は本当に姉に用済みと判断されて殺されることになるかもしれない。
それに、仮に気づかなかったのだとしたら。それはそれで、あの優しい青年への裏切り行為に他ならないではないか。例え、ルーサーがユリシーズの想いにそのまま答えることが難しかったとしても――それはそれ、彼の友として向き合いたい気持ちはある。彼の真摯な想いに、ここに来て唾を吐くような真似などしたいはずがない。
ああ、それでも。
「……お姉様が、それで満足できるなら」
どろり、と濁る視界。
「そう、致しましょう」
最初から、答えは決まっている。
ルーサーに、断る術などあるはずがないのだ。




