<20・おちる。>
甘い匂いが充満している。こっちへおいで、とルーサーを誘う。
――そういえば、いつからだっけ。こういうことが珍しくなくなったのは。
頭の隅から、ゆっくりと湧き上がる疑問。それでも足は、どこかぐにゃぐにゃと歪んで見える廊下を勝手に進んで行くのだ。頭の中から声がするのである。こっちへ来て、こっちへ来るのよ、と聴きなれた少女の声が響く。誰の声だなんて言うまでもあるまい。自分にとっては生まれる前から共に過ごしていた相手だ。魂の片割れ。同じ顔を持つ、それでもまったく違うイキモノである少女。
ああ、どこで歯車は狂ったのだろう。
ふらつきながら廊下を進み、それでもどこか冷え切った頭で考える。最初はただ、両親から冷遇されがちな姉を守りたいと思っただけだった。自分とは全く違う存在であり、全く違う性格であり、ルーサーができることができないのと同じくらいルーサーにできないことができる少女。活発で、運動神経抜群で、獣も蛇も素手で触ることのできるような物怖じしない少女だった。実際、ルーサーのことを気遣ってくれたことだってないわけではない。もし、何か一つ違ったら。本当の本当に、正義の味方の名に相応しいような、勇敢で心優しい少女に育ったのかもしれないと思うのだ。
そうならなかった責任は、自分にある。
自分が彼女を、そのような人間にしてしまったのだ。
『ルーサー、ルーサーぁ!酷いの、酷いのよ、お父さんとお母さんったら酷いの!!』
いつもルーサーを頼って泣きついてきた少女を、ルーサーは自分こそが守らなければいけないと心から思った。自分の方が弟で、運動神経も悪く、ついでに非力でもあったけれど。それでも男としての矜持はあったし、何より彼女はお姫様のように可愛らしく、同時に愛らしい存在だったがゆえに。
彼女が望むものならば、何でも与えてあげたいと思った。
彼女のちょっとした願いを、それが例え我儘と呼ばれる類でも全て叶えてあげたいと心からそう思っていたのだ。それが、ルイーズのルーサーへの依存をさらに加速させ、ますます周囲の評価を劣悪なものにさせていくとあの時はまったく気づいていなかったのである。そう、あまりにも己は未熟で、幼かった。そうやってルイーズを過度に守り続けるせいで、ルーサーはますます“頼りになる貴族の弟”という評価を受け、ルイーズは“泣き虫で甘えん坊で何もできない姉”という印象を強くした。もし――もし自分はもっと勇気を持って彼女を突き放していたら。そうでなくても適切な距離を取って、彼女が自分以外の世界にも目を向けるようにしていたら。
あるいは、彼女が人とは大きく異なる特性の持ち主であると見抜いて、その個性と向き合う方法を家族みんなで相談して考えていたら。
ルイーズは、洗脳と暴力によって誰かを無理やり従えるようなことをするような人間にならなかったのではないか。
愛を都合のいいものとして解釈し、婚約者さえ“自分に我儘を許してくれるための道具”としか見なさないような人間には。
そして――己の罪を隠すためだけに。年下の、何年も屋敷に使えた召使いの少年を殺してバラバラにして埋めて、涼しい顔をして家族にも嘘をつくような人間には。
『どうせ、仕事が辛くて逃げ出したとかじゃないの?』
ルイーズは。あの日、ティムを心配するルーサーに、いけしゃあしゃあとそんなことをのたまった。あの時の会話は、けして忘れることができない。
『所詮、あいつも無責任な無産階級の一人だったってことでしょ。我が家で救って貰って、ここまで育てて貰ったってのに、ほんと恩知らずよね』
『ティムは、そんな人間じゃないです』
『どうだか。貴族以外の人間なんかみんなそんなもんでしょ。身も心も汚らわしい存在ばかりに決まってるわ』
『お姉様、そんな言い方はないでしょう……!?』
自分で殺した相手を、さも本人が悪いように死してなお貶めて、自分の手が綺麗であるかのように平然と装って。
ああ、自分が
自分がティムを死なせてしまった。
彼女を、人殺しにしてしまった。
全て全て、このルーサー・アンヴィルが悪いのだ。
『何で、何で何で何で何で!私だって頑張ったのよ、いっつもいっつも、辛いことをたくさん我慢して、言いたいことの半分も言えないで!ずっとお父さんとお母さんが迷惑かからないようにって一生懸命頑張ってきたのに。まだ足りないの、何がいけないの!何でみんな……みんなルーサーと比べるの、ねえ何でっ!!』
きっと、契機となったのはあの日だったはず。母の、あまりにも心無い言葉をルイーズが聴いてしまった日。彼女の心は引き裂かれ、ボロボロに壊されてしまったのだ。それに対して、自分は“己と比べなくていい”とか、“もっと己を好きになればいい”というような、とにかく的外れなことばかり言ってしまった気がする。あの時もう少し気が利いたことが言えていたら、何かは変わったのだろうか。
あるいは。自分がいなければ。生まれて来なければ。それとももっと早く、この家から姿を消していれば。ルイーズにも普通の女の子として、幸せに生きる未来があったかもしれない。ティムをあんな無惨な形で死なせずに済んだかもしれない。
結論はもう、出ている。
生まれて来なければ良かったのだ――自分など。姉を苦しめるだけの、こんな出来損ないの弟など。
――でも。もう事実は、変わらない。過去は、変えられない。
頭も体もふわふわしている。それでも、芯の部分ははっきりしていて、ルーサーは確かに今此処に在る己を認識していた。
ルイーズの部屋の前に、立つ。
自分はこの香りを嗅いだら、姉の部屋に来なければいけない。ずっと、何故かそう思い込まされてきたのだ。この後のことはおぼろげにしか覚えていないけれど、このドアをノックして中に入ればおのずとはっきりするだろう。自分達がいかに姉弟としても、家族としても、歪んだ関係を続けてきたのかということが。
ノックを五回。早く三回、ゆっくり二回。がちゃり、とドアが開いた。
「いらっしゃい、ルーサー」
そうだ、思い出した。彼女は自分を部屋に呼び込む時、いつも同じことをする。
ルーサーの頭に伸びる手。髪の毛を掴んで、強引に部屋に引きずり込まれ、倒される。
「悪いけど、ちょっと機嫌が悪いのよ、私。……私の大事な大事なバラ園を、どこかの馬鹿が燃やしてくれたおかげでね。おかげで、残った花がほんのちょっとしかない。貴方も、私も、大好きな花なのにね」
赤いカーペットにまき散らされた、白い花びら。どうやら、部屋の中にも多少花と薬のストックを残していたということらしい。そうでなければ、今日ルーサーをこの部屋に香りで“呼びつける”ことはできなかっただろう。
「いくつも貴方に尋ねたいことはあるけれど……何よりもまず、確かめなくちゃいけないことは一つだわ」
ルイーズの手には、革製の鞭が握られている。それを見た瞬間、背中に痺れるような悪寒が走った。そうだ、あれは自分にとって恐怖の象徴。家族にバレないようにするため、顔や首といった目に見えるところを叩かれることは少なかったが、それでも腕や背中を何度も何度も叩かれて痣を作ってきたはずだ。
反射的に、腕が動く。手の甲を下に向けて、彼女に両腕を差し出すようにして膝をつく。
何故か?――彼女が己に“罰を下しやすい”ようにするために。
「ルーサー。貴方は、私の弟よね。双子の、弟。魂の片割れ。運命共同体。……貴方が世界で一番愛しているんは、この私よね?」
ずっと、気づかなかった。そうやって強引に答えを引き出そうとしているように見えるルイーズの声に――確かな怯えが混じっていることを。
「……そうです。僕は、お姉様を愛しています」
刹那。鞭が叩きつけられた。破裂すような音と共に、両腕に激痛が走る。思わず食いしばった歯から、しゅーしゅーと蛇のような息が漏れた。涙が出るほど痛い。ああ。
自分は、何故。このようなことを“受けて当たり前の罰”などと思い込んでいたのか。
あまつさえ、折檻されたことされ記憶の奥底に押しとどめ、忘れたフリをして生活していたのか。
『お前が、ルイーズお嬢様に洗脳されているようにしか見えないんだけど?』
ティムの、言った通りだった。自分は洗脳されていた。彼のおかげでやっと、その泥沼から抜け出そうとしている。
本当に縛られていたのがどちらであったのかは、極めて怪しくもあるけれど。
「私達の間に隠し事はなしよ。本当に、本当に私を愛しているのよね?これから先の未来も、ずっと私の言う通りにするわよね?」
ぐわんぐわんと彼女の声が反響して聞こえるのは、この部屋に充満する香りのせい。そして自分がまだ、泥の中に片足を突っ込んだままでいるせいなのだろう。ルイーズが鞭を手にしたまま、ずんずんと近づいてくる。ルーサーを暴力で支配することでしか己のモノに出来ないと信じ、そして本当は誰よりも孤独を恐れている少女が。
そう。本当は。ルーサーが自分から離れてしまうことを、世界の何より怖がっているのはルイーズの方なのだ。
「貴方は私のものよね、ルーサー?……だから正直に全部答えなさい。貴方、あのティムとかいう下民に余計なことを吹き込まれたんじゃなくて?それから、私のバラ園に関しても、何か……」
「お姉様」
その言葉を遮るように、ルーサーは口を開いた。
「僕は、貴女を誰よりも愛しています。……愛していました、だから」
彼女を至近距離から見上げ、そして。
「責任を取ります。……貴女を、人殺しにしてしまった罪は、この僕に」
え?――と。彼女の眼が見開かれる。自分が完全に支配しているはずの相手。大人しく鞭打たれていたはずの相手が、己に刃向ってくるなど露ほども思っていなかったのだろう。ましてや。
「う、そ……るー、さー?」
ましてや、己を殺そうとしてくるなんてことは。
「お姉様」
ポケットに入れていた果物ナイフを抜き、姉の下腹部に深々と埋めながら。ルーサーは言葉を紡いだのである。
「一緒に、地獄に堕ちて……ティムに償いましょう」




