<21・ころがる。>
「ひ、ぎいいっ!」
状況を把握し、突端痛みが這い上がって来たのだろう。ルイーズが派手に暴れた結果、ルーサーの手元が狂った。意図せず、傷を大きく抉ることになる。ぶちぶちと皮を、筋肉を引き裂く感触。腹を真下に大きく引き裂かれ、彼女は血を噴き上げて仰向けにひっくり返った。破れた傷から、勢いよく中身が飛び出してくるのが分かる。人の内臓は腹膜に包まれているので、それが破れると圧力で一気に飛び出してくるのだ――なんて話を以前聴いたことがあったっけ、とどこか現実逃避気味に思った。
「いやああああああああああああああああああああ!痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い!やだ、なんで、嫌い、いや、いやあああっ!」
腹を切り裂かれた彼女は、傷口を押さえて転げまわって苦しんだ。どうにか苦痛を逃そうと必死なのだろうけれど、暴れれば暴れるほど腹から腸が溢れて飛び出してくることに気づいているのかいないのか。半狂乱になり、千切れて血まみれてになった腸管をお腹の中に戻そうとする少女。あまりにも痛ましい光景だった。
「どうしよ……どうしよう、戻んなっ……なかみ、出ちゃう、戻んない、戻んない……痛い、痛いいぃ……!死んじゃう、死んじゃう、死んじゃうううう!」
「お姉様……」
「る、ルーサー……やめて、お願い、助けて。殺さないで。わ、私、死にたくない。おねがっ……病院に、連れてって……」
泣き叫びながら、命乞いをする少女。内臓が傷ついたら人はすぐ血を吐くのかと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。下半身が血まみれなのでひょっとしたら下からは出血しているのかもしれないが、少なくとも彼女の口元を汚しているのは泡だけで赤い色は見えなかった。胃より上がまだ無事だからなのだろうか。
そんな冷淡なことを考えてしまうのもきっと、自分がまだ何かから逃げようとしているからなのだろう。双子の姉を。魂を分けた片割れを今、ルーサーはこの手で殺そうとしている。
「……お姉様。ティムも、そうやって懇願しませんでしたか。あるいは、殺されまいと逃げませんでしたか」
今の自分は、どんな顔をしているのだろう。
悲しんでいるのか、怒っているのか、それさえ全て通り越して“無”となっているのか。鏡もないので、自分でさえよくわからない。
「きっと、同じくらい痛かったと思うんです。それで、お姉様は手を止めましたか。彼を助けましたか。助けなかったでしょう?しかも殺したのみならず、彼の体をバラバラにして埋めて、本人が恩を忘れてこの家から逃げたような物言いをした」
「し、仕方ないじゃない!バラバラにしないと運ぶのが大変だったんだもの!そ、それに……っ」
ここに来てもまだ、ルイーズは自分を正当化したいようだった。
「それに、私は何も悪いことなんかしてないのに、あいつが邪魔しようとするんだもの!実際、ルーサーが今こうして私に酷いことしてるの、あいつのせいなんでしょ!?やっぱりあいつは悪いやつだったんじゃない!!私は、わ、私は……私とルーサーを守る為に、悪魔を退治しただけよ!貴方を守ってあげたのに、そのために下民一人殺しただけでなんでこうも非難されないといけないの!!」
もう、今更彼女のそんな言葉に傷つかない自分がいる。ルイーズが、一度こうだと思い込んだらその考えをけして変えられない性質であるということは、子供の頃にはもうわかっていたことだ。自分が正しいと思い込んだら、誰がどう間違っていると指摘しても譲れない。だからルーサーは、彼女の言葉を肯定しつつ、少しでも正しいように誘導することで彼女を導こうとしてきたのだ。
でも、それが間違いだったのかもしれなかった。
彼女はルーサーに依存して、その上でその対象が己の世界を壊す元凶だと知って引き裂かれた。自分が信じるべきものは自分の世界だけだと、ますます信じるようになってしまった。――本当の優しさとは、相手の言葉のイエスマンになることではなく、間違ったことは相手に殴られても詰られても間違っていると伝え続けることだったというのに。
「あ、あいつは悪くて、私は悪くなかったんだから!ひ、非難されるいわれなんか……うぐっ……ないんだからあ!お願い、そんなこと今はどうでもいいでしょ、は、早く!早く早く、私を、助けなさいよ!め、命令なんだからっ!」
どうにか傷口を押さえて、とにかく命乞いをする彼女。嘘でも“自分が悪かった”と言えない。助けて欲しいのに、相手に媚びを売ることもできない。それが彼女が抱えてしまったもので、自分達が彼女をそう形成してしまった結果だった。ルーサーは泣きたい気持ちで、姉の傍に跪く。長く苦しめたいわけではなかった。早く、トドメを刺さなければならない。例えそれが、彼女との今生の別れを意味するものだとしても。
「お姉様。……人の命と自分の命。重さが違うなんて、そんなことはないんです。人の誇りや、尊厳、魂も同じ。階級が貴族だろうが庶民だろうが、男だろうが女だろうが大人だろうが子供だろうが関係ないんです。……自分の命を重んじて欲しいなら、貴女は相手の命を重んじなければいけなかった。自分の心を大事にしてほしいなら、相手の心をまず大事にしなければいけなかった。……一体誰が、己のことを“理解する気もない”人のことを、本気で理解したいと思うのですか?それが、赤の他人なら尚更なんです」
「る、ルーサー……っ」
「ティムは、他人でありながら僕の心に寄り添ってくれた。だからこそ僕も、ティムのことを心から大切な友人と思っていました。……お姉様のこともそう。理解しようと、寄り添う努力をしようと思って、僕なりに続けてきたつもりだったんです。でもお姉様は、自分が理解されたい理解されたいと喚くばかりで、僕のことをちっともわかってくれようとはしなかった。……何で僕を薬で洗脳したんです?そうでもしなければ、鞭で折檻されて命令を何でも聴く人形にできないと知っていたからでしょう?僕の心が、そこにはないことをお姉様自身が一番よくわかっていたからでしょう?」
ルーサーの意思を蔑ろにしていることに、気づいていなかったとは言わせない。
自分とルーサーを守りたかった?――彼女が守りたかったのは、自分自身と自分に都合の良い世界だけ。ルーサーが、彼女をそんな人間にしてしまったのだ。
優しい時間も、楽しい時間も、確かにかつての自分達には存在していたはずだったのに。
「愛されたいなら、まず自分が愛さなければいけなかったんです。それができない人間が何故、無条件で望む人間に愛されることになるのでしょう?……ごめんなさい、お姉様。僕はもっと早く、お姉様を叱らなければいけなかった。その上で、共に乗り越えていくべきだったのに」
人の心臓を貫くのは、簡単なことではない。何故なら肋骨が邪魔するので、そうそう刃を刺しこむことができないからだ。非力である自覚があるルーサーならなおのこと、心臓を狙って刃物を振るうのは悪手と言える。中途半端に灰に穴でも開けようものなら、もっと苦しませるだけなのだから。
本当は、脳を直接破壊するのが一番いいのだけれど。頭蓋骨はもっと硬いし、目から刃物を通すには刃渡りが短すぎる。脳まで刃が届かないかもしれないなら、ますます痛い思いをさせてしまうだけだ。なら、消去法で狙うべき場所は一つだけ。彼女の首筋に、そっとナイフを押し当てる。
「や、やめて、ルーサー……っ!」
苦痛に泡を吹き、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながらルイーズが言う。
「何で、何でこんな酷いことするの。私、そんな、悪いことなんかしてないでしょ。私達、家族なのに、双子、なのに。なんで?なんで、私を、殺すの、なんで」
本当の愛とはなんだろう。
ああ、それに辿りつけていたら、自分達は。
「大丈夫です、お姉様。僕もすぐ、そっちに行きますから」
人を殺した自分と姉は、ティムと同じところには行けない。それでも、購うことはできる。
地獄の焔に焼かれることでしか、きっとこの罪は償えない。
「いや、いや、ルー……っ」
「ごめんね、お姉ちゃん。さようなら」
そして。ルーサーは体重をかけて、一気にその首筋を切り裂いたのだった。
***
きっと自分は、心のどこかでこの結末を予感していたのだろう。
馬車も使わず屋敷を飛び出し、ユリシーズは夜の町を走った。指定された公園は遠くないし、何より御者でさえ同じ場所に伴いたくはなかったからである。
「ルーサー様!」
そこは、ほんの数日前にユリシーズがティムと話した公園だった。子供が遊ぶような場所なので深夜である今は閑散としている。ベンチに座り込んでいる少年は、最後に見た時よりも随分と小さくなったように見えた。
「……ユリシーズ、様」
ユリシーズの気配に気づいてか、少年は緩慢に顔を上げる。青ざめ、明らかにやつれた様子だった。それだけでおおよそ、何があったか悟ってしまう。彼の体からは微かとはいえ、血の匂いがしたからだ。服は着替えただろうし、きっと手も洗ったのだろうに。
「こんなお時間に、呼び出してすみません。……お手紙に、書いた通りです」
二人だけで逢いたいと、執事に頼んで手紙をよこしてきたルーサー。そこには、彼の身に起きた一部始終が記されていた。
自分が姉に洗脳されていることに気づいたこと。
自分を目覚めさせてくれたティムが姉に殺されたこと。
その姉を――たった今、自らの手で殺してきたことを。
「本当は、お姉様を殺して自分も死ぬつもりだったんです。人を殺した人間は、相応しい報いを受けなければいけない。ましてや、親友を殺したとはいえ……僕が死に至らしめたのは双子の姉です。より道義上の罪は重いことでしょう。償うには命を以てしかない……そう思いました、でも」
できなかったんです、とルーサーは両手で己の顔を覆った。
「死のうとしたのに……ナイフを、首に当てて切ろうとしたのに……手が震えて、結局できませんでした。僕は最低です。一緒に地獄に堕ちましょうとお姉様に言っておきながら、自分で死ぬ勇気も持てないなんて……!これじゃあ、これじゃあ臆病者だの愚か者だのと、お姉様を謗る権利もない……っ!」
どうすればいいのかわからず、それで頼ったのがユリシーズだったということなのだろう。ユリシーズなら、ある程度事情を把握しているだろうと思ったのもあるかもしれない。
姉を殺したから、自分も死ぬのが筋だ――なんて。
そんな風に考える彼はどこまでも、馬鹿正直なほど真面目であるのは間違いなかった。法律上、人を殺したとて必ず死刑になるわけではないというのに。もっと言えば、彼はまだ少年法が適用される年齢であるし、何より姉に洗脳と暴力を受けていたという情状酌量の余地も十分あるというのにだ。
「ルーサー様……」
死ぬ必要はない。
貴方が悪いわけではない。
そう言葉をかけるのは簡単だろう。けれど、ルーサーがそんな甘言で納得するとは思えなかった。ゆえに、ユリシーズは彼の前にしゃがみこんで視線をあわせると、その顔をまっすぐに見つめて言ったのである。
「でしたら。……別の償い方をいたしましょう。命を捨てるよりも、もっと大きな償いを」
「大きな、償い?」
「ええ。私は……死んで楽になるより、生きて罪に向き合い続ける方がよほど重いと感じます。あなたも、そうするべきということではないでしょうか」
顔から離れたルーサーの手を、そっと握りしめる。
ルイーズは、明らかに狂っていた。だが、それはあくまでユリシーズの考えた。あれは病気だった、治療するべきだった、家族ならばそう思って悔やむのも当然といえば当然だろう。それができず、最低の解決方法しか取れなかったと嘆くのも。
ならば、それは生きて、未来に生かすべきだ。死者に報いるためのみならず、自らが生きる道標を見つけるためにも。
「恐らく、貴方は死刑にはならない。この国の法律を鑑みるなら、殺人とはいえ情状酌量の余地ありとして執行猶予もつくかもしれません。……法の裁きを受けたら、そのあとは……私に、貴方の残りの人生を下さいませんか」
「貴方に?」
「ええ。……お姉様と同じような悩み苦しみを抱く子供達を、共に救う方法を。そして、この国に光を。……貴方にその準備ができるまで、決意ができるまで……私はいつまでも待っています」
自分は、卑怯なのかもしれない。人によっては、弱ったルーサーの心に付け込んでいると思われるのかもしれなかった。
それでもいい。
今はこの、傷つき果てている少年を少しでも支えたい。生きる、目的を与えたい。
それが、この事態を予測していながら止められなかった自分の、せめてもの償いでもあるのだから。
「ですから、その時……もう一度貴方に言います。私と、結婚してくださいと」
ユリシーズの言葉に。ルーサーは泣き濡れた顔で――それでもしっかりと、頷いたのだった。




