<17・うけとる。>
ティムが突然姿を消して、まる二日が過ぎてしまった。ルーサーは夕方、一人で本を開きながらため息をつく。せっかく買ってきた、人気シリーズの新刊。それなのに、今はいくら紙面に目を落としても、ちっとも内容が入って来ない。
この内容を、共に語り合えたはずの親友は――一体何処に行ってしまったのか。
『どうせ、仕事が辛くて逃げ出したとかじゃないの?』
ルイーズは冷たく言い放った。元よりティムのことを嫌っていた様子の彼女だから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが。
『所詮、あいつも無責任な無産階級の一人だったってことでしょ。我が家で救って貰って、ここまで育てて貰ったってのに、ほんと恩知らずよね』
『ティムは、そんな人間じゃないです』
『どうだか。貴族以外の人間なんかみんなそんなもんでしょ。身も心も汚らわしい存在ばかりに決まってるわ』
『お姉様、そんな言い方はないでしょう……!?』
ティムと最後に逢ったのは姉であるはずである。夕食前の時間に、ルイーズが話があるからとティムを呼び出したのはみんなが知っていることだ。その時、わざわざ他の執事やメイドたちに、ティムの仕事を免除するようとまで根回ししていた彼女である。よほど重要な話があったと思わるが、その内容は定かではない。ルイーズも“あんたについて釘を刺しただけよ”としか言わなかった。確かなことは、そのルイーズと話してから、ティムの姿が見えなくなったということである。
ルイーズいわく、話が終わったら彼は自分の部屋を出て、それ以降のことは知らないとのことだった。ただ、屋敷を出て行ったにしては、玄関付近を掃除していたメイドたちに目撃されていないのが不思議なのである。彼は、窓から出て行ったか、あるいは煙のように屋敷の中から消えてしまったか。どちらにせよ、違和感しかない。ルイーズは本当は何か知っているのかもしれないが、深く追求するのが怖かった。やっと最近、姉の機嫌が直ってきたというのに。
――ティム。……何か、あったのですか?僕の知らないところで、何かが。
ここ最近、ティムの様子はどことなくおかしかった。自分はもっと彼のことを気にかけていれば、このような事態にはならなかったのではないか。
彼はアンヴィル家とルーサーへの恩を忘れるような人間ではないし、そもそも見た目に反して非常に律儀な性格をしている。急な用事があったとしても、誰にも言わずに何日もいなくなるようなことなどあるとは思えない。どこかで事故に遭って動けなくなっているのではないか。そう思って屋敷中を執事たちに探して貰ったものの、それらしい痕跡はどこからも見当たらなかった。まさか屋敷の中で、誘拐事件が発生したとも思えないのだが。
――……きっと何か、何かトラブルがあったんだ。でも、その何かがわからない……。
ぐるぐると考えながら、ルーサーは一枚の封筒を取り出す。つい先ほど届いたばかりの手紙の返事だった。実際に逢うのはあと数日後になるが、ユリシーズと手紙のやり取りだけは続けていたのである。それはどちらかといえば、ルーサー側の意向だった。なんとなく、手紙の方が正直に話せることが多いような気がしたためである。
自分は、恋愛感情というものがいまだに良くわからない。
何故そこまでユリシーズが己のことを想ってくれるのかもよくわからなくて戸惑っているのは事実であるし、そもそも男性をそういった対象に含めることができるかどうかもあまり自信がない。
ユリシーズは“夫婦”とは名ばかりの友人でありビジネスパートナーでも構わないと自分に言ってきている。それに甘えてしまうことが、本当にいいのかどうか。同時に、ルイーズと彼が婚約してもらう道は本当にもうないのかどうか。
己の気持ちに答えを出すためにも、手紙のやり取りは続けていたのだった。幸い家が遠くはないので、運が良ければ同日中に手紙が届く。翌日にはもう返事が来ているなんてこともざらにあったのだった。彼も受験シーズンで忙しいだろうに、有りがたい話である。
『ルーサー様。お話はよくわかりました。ご友人のこと、本当に心配ですね』
たかが召使い。たかが庶民。そんな風にティムのことを見下して軽んじない彼だからこそ、今回のことも真摯に相談に乗ってくれたのだった。
『ティムさんに関して、私が知っていることは多くはないです。ですが、貴方が親友だと断ずる人間が、貴方をそう簡単に裏切るはずがないと思います。他の誰に言われても、貴方だけはどうか彼を信じてあげてください。それから。苦しいこと、辛いこと、これからたくさんあるかもしれません。お姉さんとの関係で悩むこともきっと多いでしょうし、貴方は繊細ですからストレスを溜め込んでしまわないか心配です』
まるで、ルーサーの心を見透かしたような、ユリシーズの言葉。その文字を、ルーサーはそっと指でなぞる。高級紙に綴られた万年筆の文字は、流れるような達筆でどこまでも美しかった。
『一つだけ。……貴方が私を恋人として愛していなくても構わない。私が、貴方を愛している気持ちだけは本当であることを信じてください。何があっても、私は貴方の味方です。貴方と、新しい世界を作っていきたい気持ちに嘘偽りはありません。貴方と一緒なら、それこそ家も名誉も何もかも捨ててしまえる自信があります。……どうしても耐えられなくなったら、私のところに来て下さい。必ず力になると、お約束しましょう』
ユリシーズは、何かを知っているのだろうか。まるで、これから大きな試練がルーサーに降りかかることを知っているかのような口ぶりである。あくまで、それほどまでにルーサーを愛していると言いたいだけであるのかもしれないが。
いずれにせよ、彼の言葉がルーサーにとってどこまでも心強かったのは確かである。本当に困ったら、どうしてもティムが見つからなかったら彼を頼ろうと思っていた。問題は、お見合いの日に自分はまたルイーズと入れ替わる約束をしてしまっているため、当日彼に逢うことができないということなのだが。
――本当に、これで正しいのかな。
ちくり、と。棘のような痛みが、胸を刺した。手紙と本を机に置き、部屋に併設された簡易キッチンへと向かう。コーヒーや紅茶くらいは部屋から出なくても入れることができる仕組みになっているのだ。
ティムがコーヒーを勧めてくれたのだとユリシーズに言ったら、ユリシーズも“あれは美味しいですよね”と絶賛していた。ついでに、頭を冴えさせる作用もあるのだとか。考え事をしたい時こそ飲むといいですよ、と言われている。本当はティムに作って貰いたかったと思いつつ、自分でインスタントを入れた。やり方は聞いている。確か彼は、自分の味覚に合わせて相当な量のミルクと砂糖を入れてくれていたはずだ。
「熱……」
コーヒーを入れて一口、二口。その熱さに顔を顰めながらも喉へと流し込んでいく。香りも悪くない。味もきっといつも通りなのだろう。それなのに、やはりいつもより苦いと感じてしまうのは、ティムがこの場にいないからだろうか。
学校に友人がいないわけではない。
でも、あれほどまでに本の世界に共に没入し、語り合えるような仲間はティムの他にはいなかった。早く帰ってきて欲しい、と思う。そう、最悪の可能性なんて考えたくもないのだ。もう二度と彼に逢えないかもしれないなんて、そんなことは。
「!ど、どちら様!?」
唐突にノックの音が響き渡って、ルーサーは肩を跳ねさせた。コーヒーを零さなかったのが奇跡である。動揺しつつもカップをテーブルに置くと、“私でございます”と声が聞こえた。執事長のチャールズだ。この部屋を訪ねて来るのは非常に珍しい。どうぞ、と言うと見慣れた老紳士は神妙な顔をして入室してきた。
「突然失礼いたします、ルーサー様。実は、お渡ししたいものがございまして」
「僕に、ですか?」
「はい」
チャールズは、一瞬何かを躊躇うような仕草をした後――ポケットから封筒を取り出した。表には、ルーサーへ、の文字が記されている。ティムの文字だ、とすぐに分かった。
「万が一、自分に何かあったらこれを渡すようにと言われておりました。……中身は見ておりません」
万が一。背中がに、冷たい汗が伝う。ティムは、自分に何かが起こることを予め察知していたとでも言うのであろうか。ルーサーは震える手で、薄緑色の封筒を受け取った。後ろには確かに、ティム、の名前が明記されている。
「中身は見ておりませんが、内容に見当はついております。……それを見て、どう決断されるかはルーサー様の自由です。貴方には、その権利がある」
ベテランの執事は、どこか疲れたような顔でルーサーを見、深々と頭を下げた。
「……申し訳ありません。……それでは、失礼いたします」
「チャールズ……?」
その謝罪は、ただ突然この部屋を訪れた失礼だけを指すものではないように思われた。戸惑っているうちにチャールズは頭を上げ、そのまま部屋を出ていってしまう。彼は忙しい身だ。自分の仕事のみならず、他の執事やメイドたちにも仕事を割り振らなければいけない立場にある。夕方のこの時間は特に忙しい筈であるし、必要以上に引き留めておくわけにもいかなかった。何にせよ、この封筒の中身を見ればおのずと答えは出るだろう。
ただ、ルーサーはそれを開ける勇気がなかなか出なかったのだった。恐る恐る開いて中に入っていたのは、一枚の便箋のみ。どこまでも軽いただの紙のはずなのに、妙に受け取った手がずっしりと重たく感じるのは何故だろう。
パンドラの箱。そんな言葉がよぎってしまい、頭をぶんぶんと振る。
――そんな、大層なものじゃないはずだ。
言い聞かせながら、手紙を広げる。
――だって……ついこの間まで僕達は、普通に友達として話していたんだから。
そして、ルーサーは知ってしまうことになるのだ。
ティムが何をしていたのかを――そして、彼が恐らくどうなったのかということを。




