<16・ころされる。>
これはもう、完全にクロ認定されている。ティムは煩いほどの己の心臓の音を聴きながら、必死で頭を回していた。
手紙をユリシーズに出したかもしれない。ティムがバラ園に踏み込んで、ナナリーローズに気づいたかもしれない。だが、現時点の情報で彼女がわかったのはそこまでのはずだ。ユリシーズがティムと話したことをルイーズに話すはずがないし、その機会もなかったはず。強いて言うなら、何も知らないルーサーがコーヒーを飲んでいることをルイーズに喋ったかどうかといったくらいだが、それだって確定的な証拠ではないはずである。
――認めたら終わりだ。
ティムは己を落ち着けようと、口を開いた。
「……誤解です、ルイーズ様」
彼女は、己とルーサーの関係を絶対的な“聖域”と信じて疑わない様子である。そこに、下民と蔑むティムのような人間が踏み込むことなど絶対に許さないだろう。入るな、と言われていたバラ園に踏み込んだことだけでも相当腹に据えかねているはずなのだから尚更だ。
「確かに俺が手紙を出したのは、旦那様のものではありません。昔住んでいた、労働者の知人に恨み言の一つでも送ってやろうと思っただけです」
「連中はきちんと住所も持っていないはずだし、今更何を送るというの?そもそも、やましいことがないなら何故嘘なんかついたの」
「宿あてに手紙を送ればとりあえずは到着しますよ、実際に開封されるかは定かでありませんが。そして、そんなみみっちいことをしたなんて、ルイーズ様はともかくルーサー様に知られたいわけないじゃないですか。同性の友人相手のプライドは、俺にだってあるんです。俺に字を教えてくれたのがルーサー様だから尚更に」
よくもまあ、自分でもこんな思ってもいないことがベラベラと出てくるものである。思考力を鍛えることができたのも、ルーサーとの日頃の論戦のおかげだと言うべきか。本当に彼には頭が上がらない。この家に招き入れてくれたことも、文字を教えてくれたことも。
だからこそ、今ここでルイーズに捕まって洗いざらい吐かされるわけにはいかないのだった。きっとあと少しで、ルーサーの洗脳は解ける。今ここで、立ち止まるわけにはいかないのだ。
「バラ園に関しては、完全に濡れ衣です。ルイーズ様のいバラ園に踏み込むな、というのは幼少期から口が酸っぱくなるほどチャールズ達に言い聞かされてきたことですよ?今更それを破ってどうしようというのですか。此処を追い出されたら、俺に行くあてなんかないのに」
うっすら残った靴跡だけで、完全に犯人と断定することはできないはず。そもそも、仮にナナリーローズを目にしたとて、それがどのような植物でどのような目的で使われていたかを知らなければ何もできないも同然だ。ルイーズとて、そのような知識がティムにあるとは思っていないし、そもそも知識があったら迂闊に足跡を残すような真似などしていないと気づくはずである。
「誰か別の泥棒でも入ったのかもしれませんし、他の使用人やお客様ではないと完全に言い切ることができるのですか?俺が、ビニールハウスの中にいたのを目撃したわけでもないんでしょうに」
「そうね」
「俺は無実です。そもそも、花に興味があるわけでもないのに、入るメリットなんか皆無でしょう」
普段なら鬱陶しいほど変わるルイーズが、ずっと死んだような眼でこちらを見てくるのが不気味で仕方なかった。早口でまくしたてると、彼女はやがて一つ息をついて――そうかもしれないわね、と告げた。
「……いいでしょう。信じてあげる。でも、次疑われるような行動があったら……わかってるわね?」
その言葉に、ティムは心の底から安堵した。
「も、勿論です」
疑われるような行動って言われても、と思わなくもなかったが。とにかく、今はこの場を穏便に切り抜けることが優先だ。やや不自然を承知で、ティムは立ち上がった。
「そ、そろそろ俺も仕事があるので、失礼します」
今日のルイーズは、どこまでも気味が悪くて恐ろしい。とにかく一刻も早く、この場を離れてしまいたかった。相手の同意を得るよりも前に逃げ出すなんて本来なら立場上許されることではないのだが、そもそもティムの精神力が尽きそうになっているのだからどうしようもない。後で滅茶苦茶叱られるかもしれないが、このままではボロを出さない自信もなかった。
そそくさとドアの方に向かい、ノブに手を伸ばそうとした、その時である。
「……なんて、そんな口から出まかせを信じるとでも思った?」
「え」
慌てて振り向いた瞬間、肩に灼熱が走った。思わず呻き、膝をつくティム。何が起きた、と痛みがずきずきと走る左の肩口を見れば、布がすっぱり切れて血が滲んでいる。
「失敗。なかなかうまくいかないものね」
「ど、どうし、て」
唖然として見上げれば、ルイーズが右手でナイフをひらひらとさせながら呟いていた。まさか、たった今自分はそれで彼女に切られたというのか。
――ま、マジかよっ……!
さっきの動作。明らかに、首を狙っていた。つまり、殺す気だったということだ。背筋が一気に冷たくなる。どうして、と思わず零せば、彼女は心外と言わんばかりに目を見開いた。
「そこで、“どうして”って言葉が出てくる時点でお前は罪人なのよ。私とルイーズの関係を踏み荒らそうとした、それそのものが万死に値するということが何故わからないのかしら」
「そ、そんなつもりはっ」
「そんなつもり?……一体どのクチが言うのよ、この下民!下民がっ!」
そこにいるのは、鬼か悪魔か。凄まじい形相になったルイーズは吠えるような声を出し、一気に遅いかかってきた。よろけながらも慌てて立ち上がり、襲撃を避ける。がつん!とドアにナイフが突き刺さるような音がした。
「私が何も分かってないと思って、どいつもこいつも馬鹿にして!みんなみんなみんな、私を馬鹿にして!私が女だから、お嬢様だからって甘く見てるんでしょう!?私はねっ……自分の世界を守るためならなんだってできるんだから。それを今から証明してあげるんだからっ!」
意味のわからないことを叫びながら、ナイフを振り回して襲ってくる。まずい、とティムは焦った。いつの間にか場所が入れ替わり、ルイーズがドアを背にする形となっている。この部屋の出入り口は窓かドアの二か所のみ。窓には普通ならば鍵かかかっているはずだった。しかも、この部屋の窓は鍵を開けるのに手間がかかる。開けている間に、背中を刺されない保障はまったくない――というか、そんな暇を許してくれる襲撃者とは到底思えなかった。
「ルーサーは私のものなの!永遠に、生まれた時から私のものだったのよ!それを、誰かに奪われてなるものですか!!あの子は永遠に、私の弟として私の人生に花を添える存在であるべきなの、それで私もルーサーも幸せになれるんだから!!」
「うぐっ!」
思わずガードした左の掌をナイフが切り裂いていった。激痛に歯を食い縛る。ルイーズは本気で自分を殺すつもりらしい。自分の家で、自分の部屋であるにも関わらず。
「ルーサーもユリシーズも手に入れる!そして私は、私を馬鹿にしてきた全部を見返してあげるんだから!それが私の、私達の幸せなのよ!ぽっと出の下民なんかに妨害する権利があると思っているわけ!?お前は邪魔よ、邪魔、邪魔、邪魔、邪魔、邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔ァ!!」
血走った眼。唾を飛ばしながら叫ぶ鬼女の形相。思わずその狂気に圧倒された瞬間――思いきり彼女に体当たりされていた。
まずい、と思った刹那。腹に食い込む熱の塊。
「あ、あああああああああああ!」
異物が無理やりねじ込まれ、そしてずるずると引き抜かれていく圧倒的不快感。灼熱が激痛に代わり、ティムは絶叫していた。
これだけ大騒ぎしているのに、誰も来ない。召使いたちの大半は食堂で準備をしているせいだと気づいた。ルイーズの部屋は、あそこからかなり遠いのだ。他の人間達も殆どがその周辺に集まっているか、自分の部屋だろう。近くの部屋に誰もいないなら、広い屋敷の中で惨劇に気づかないのもなんらおかしなことではない。
――殺される!
ルイーズが再び血まみれのナイフを振り上げた瞬間、その手首をどうにか押さえこんで阻止した。向こうが年上でそこそこ体格があるとはいえ、こちらは男であるし多少力仕事もやっている。純粋な力比べで圧倒されることなどないはずだった。
だが、体勢が悪すぎる。足の上に馬乗りになられている状況で、存分に力を発揮することなど不可能に近いのだ。向こうは全体重をかけてきているし、こっちは負傷しているから尚更である。
「う、ぐううっ……!」
ナイフを押さえている手からも、どんどん血が滲んでくる。痛いなんてものじゃない。でも、ここで手を離したら今度こそ殺されるだけだ。腹の傷からは、まるで海のごとく血が溢れてくるのがわかった。相当深いのかもしれない。口に血が上ってこないということは、胃に穴が空いたわけではなさそうだが。
「死になさいよ」
ルイーズが、悪鬼の形相で睨んでくる。
「お前が死になさいよ。私達の幸せな世界に、お前は必要ないわ。死ね、死ね、死ね!人生の邪魔者、死ね、死んでしまえ、さっさと死ね!!」
なんともまあ、と。このような状況なのに、少しばかり呆れてしまった。己に刺さっているブーメランにも気づいていない。自分の理論が破綻していて、そもそも最初から壊れた歯車で回っていることも。その歯車を己の理屈でブチ壊しておきながら、回らない回らないと駄々をこねてひっくり返って泣いている己も理解していない。
なんて哀れな人なのか。
こんな人のために、ルーサーは。
「……邪魔者、は。あんたの、方、だろうがっ」
力いっぱい、ルイーズの手首を握りしめる。爪が食い込み、肌を破る感触。さすがに痛かったのか、ルイーズの顔が歪む。
それでもじわじわと、ティムの胸元に近づいていく刃。なんて執念、なんて力。それをもっと、他のことに向けることができれば――彼女もこんな結末にはならなかったはずだというのに。
「あんたが、消えるべきだ……ルーサーの、人生から、永遠に!」
「ふざけるな!お前に、私とルーサーの何が、わかるの!一体何がっ!」
「ぐああっ!」
ぐり、と足で腹の傷を圧迫され、激痛にティムの力が緩む。勢いよく手を振りほどかれた刹那、胸を貫く衝撃。ナイフが柄の部分まで、ティムの胸元に埋まっていた。肉が断たれ、骨が削られ、内臓が抉られる痛み。血を吐きながら最後にティムが見た光景は、癇癪を起す子供のような顔で刃物を振り上げる少女の姿だった。
――ああ、ルーサー……ごめ、ん。俺。お前を、助けてやれなかった。
そして。
ティムの視界は永遠に、真っ暗な闇の中へと閉ざされたのである。




