5.感情の螺旋
手にしようと触れたグラスが弾け落ちる。内に含まれていた液体がみるみると広がった。一度調子を崩すと何をやっても上手くいかなくなる。うんざり、許せない。苛立ちながら、拭く布を探すと足元にぬっと影が近付いた。
「……ベルちゃん、大丈夫?」
躊躇いがちに見上げるミラの寄った眉を見て、怒りが増幅した。懸念される自分が許せない。
朝、目覚めて顔を洗い髪を梳かした時から始まっていた。いつもならスルスルと終わるのに、幾らやっても綺麗に編めない。もう、今日は降ろしたままで良い。諦めて衣服を替えようとするとスラックスに足が引っ掛かった。気分を直す為に水を汲もうとグラスへ手を伸ばす。指が隣の瓶に当たり、それは落下して中に立てていた勝手道具が散らばった。
苛立っている原因はわかっている。あいつだ。あいつさえいなければ。そうではない。そうやって他人に焦って気を揉む現状が受け入れ難いものだった。そんな自分に苛立つのだ。私はこんな所で梃子摺っていてはいけない。こんな事で気を煩わせてはいけない。トップは私。この私なのだから。
「おぉー。リージェは段々上達するなぁ。いやぁ教え甲斐があるってもんだ。」
「いぇい!見せたらイリヤ先生も褒めてくれるかなぁ?」
「それはどうだろうなぁー…。あいつ武器操扱でシェルビィちゃんに負けたの気にしてるから。下手したら怒鳴られるかもよ。」
「…ちぇっ。まっ、この修目楽しいから良いや!ケレイブ先生なのがちょっと不満だけど。」
「おいおい。それ俺の前で言っちゃうかー。」
鉄と鉄の擦れ合う音。もしくは鈍器を打ち付けた重低音。それと近くでリャンとケイルの話し声が聞こえる。俺はこの修目が逃げ出したい程大嫌いだ。
「ウィル候補生!もっと腕を上げて!」
シェルビィが声を張る。もうやめてくれ。総合成績の割に武器に関しては最下位といって良い程丸切り駄目な俺に彼女は付きっ切りだった。居た堪れなく恥ずかしい。捕具はまだマシだった。機があれば使えない事もない。けれど特に刀剣類は全く使えなかった。こんな物をどうやって使い熟せと言うのだろう。ダミーの標柱に振り回してみても傷ひとつ付かなかった。むしろ刃が綻ぶと怒られただけだ。
「素振りを馬鹿にしているの?あなたは刃の先がバラバラだからてんで駄目なんです。正しいフォームを染み込ませないと。聞いているのですか、ウィル候補生!」
その呼び方もうんざりだ。彼女は訓練生を呼び捨てる事に抵抗があるらしくフルネームで呼ぶ。ラストネームが無い俺なんかは更に堅い呼称になるのだ。早いとこ解放されないだろうか。
「はははっ。見て、ウィルがしごかれてるよ。」
「もうっ!そんなのいいからもう一回!」
そんなのとは何だ。ニコラスは元々槍や弓矢なんかの心得があったらしく武器操扱の成績は良かった。彼自身は短剣や多節棍など、それぞれに専門的高度な技能が求められる武器に興味を示していたがジゼルに強請られてすっかり指導側に回っている。彼女は体術がほぼ互角だっただけにニコラスに負けているのが悔しいらしい。
「おおぉーーー!!」
室内に歓声が上がった。シェルビィもそちらを向いているのを確認してから群がりの先を見た。アーロンだ。本人は恐れ入ったように縮こまっている。標柱に多方面からナイフが刺さっている。どれも同じ高さだ。囃しを聞くにすべて一度に投げたものらしい。
「さすがベルっ!」
「すごーい!格好いい!」
次に甲高い声が集まった。確認するまでも無くヴェロニカだ。見るとアントニーと組手をしていた。空中に四本のダガーが浮いている。ヴェロニカ足技を掛ける。そのままダガーを一本キャッチ。アントニーが体制整えているところに切り込む。アントニーはすかさずショートソードで受けた。ヴェロニカはアントニーの右腕に乗り上がる。左足でダガーを掴み勢いよく背中へ振るう。アントニーがヴェロニカを薙ぎ払いながら避ける。そこにヴェロニカがダガーを投げる。アントニーがそれをソードで払う。最後のダガーを取り、駆け寄るヴェロニカ。剣のぶつかり合う音が続いた。
「…あそこまで上達しなさいとは言ってないんです。」
「え?」
っと。教訓者相手にえ?はまずかっただろうか。
「剣を振るうだけでいいんです!なぜできないんでしょう?あなた…ほかは優秀じゃないですか!リーダーの素質だって申し分ない!難を上げれば武器の扱いと座学だけ!座学に関しては幼い頃からの教養に起因しますから何も言うつもりはありません。あなたは思考力も優れているからすぐ伸びるかもしれない。でも…!でもこれは…勿体無い!体術であんなに動けてるのに!力だってあるでしょう!あなたならトップも狙えるのに…!なのにこの様はなんですか!」
「え、えっあの。え?」
「ちょっとちょっとシェルビィちゃん。どうしたの大きい声出して。」
ケイルだ、助かった。大きく上下するシェルビィの肩にケイルが手を置く。
「…みんな聞いてるよ。考えて喋らないと。」
小声でそう言うとケイルは俺を見た。一瞬睨まれたのかと思ったが、すぐにとぼけたいつもの顔で笑った。
「歳上の女の子こんなにしちゃって。ウィルも隅に置けないなあ。」
「…なんの話ですか。」
「ははっ。シェルビィちゃんは熱心だからね。やる気のないお前に怒ってんのよ。」
ケイルはそう言って、しっかり目を合わせたまま困り顔を作って笑いかけてきた。遠回しのお説教らしい。味方はいない様だ。
「俺には必要無いんです。」
「必要?」
「武器なら自分の身体がある。」
「…なるほどねぇ。」
「武器が使えない人らは使えなくとも突攻力に問題無い奴が主でしょう。俺や…ローラとか。」
「ローラ=ガルーはあなたに比べたら遥かに上手ですよ。」
調子を取り戻したらしいシェルビィが間髪入れずに割り込んでくる。ああ、この手の女は…。シェルビィを苦笑いのケイルが宥める。この男も同じ気持ちなのかもしれない。
「武器が散々だと言いますが俺はそれでもこの中で二位だ。ほかでカバーしてる。何が問題なんですか。」
俺の発言と同時に空気がシンとした気がした。シェルビィが黙ったからだろうか。
「ウィル。…君は世間を知らな過ぎる。何が起こるかわからないんだから、できる準備はしておいた方がいい。そう思わない?」
それに返す言葉が見つからなかった。何への懸念なのかが想像できなかったからだ。悟った様な顔で抽象的に仄めかして言い負かす、ケイルの技だろうが。それに対抗する術を俺はまだ持っていない。俺はまだ子供なのだと思い知らされたのだ。
さすがに不穏だと感じたのかチームメイトが寄って来る。心配する女子達にケイルが笑って誤魔化した。俺とシェルビィは立ち竦んだまま。彼女もまた未熟なのだろうか。時間だけが丁度良く流れていてくれたおかげで演習は打ち切られた。ぞろぞろと人が流れていく。俺もその中のひとり。ほんの一部でしかない。
ああなんて不合理なんだろう。腕が痛い。剣の素振りがなんだと言うのだ。使う事などこの先いくつになっても無いだろう。無駄な事をした。大人は本質など見ない。例えばヴェロニカが使っていたダガー。あれよりももう少し小振りのナイフがあれば俺は幾らか使い熟す事ができる。など、誰も思いもしないのだろう。
「はぁー。」
「ウィルそれ何回目?」
溜め息を吐く俺をニコラスが笑う。こいつなら数えていてもおかしくない。
「もうー早く食べなよー!」
そう急かすジゼルの皿はほぼ空だった。いつもひとの半分の時間も掛からないチャバと同じペースだ。そう言えばノエルに至っては今日は止めておくとか言って昼食を注文していなかった。
「え、ウィルは行かないの?」
思い付いた様にニコラスが問う。
「行くってどこに?」
「オーダーマッチ。」
オーダーマッチ…。耳にした事はある様な気がしたが、またイベント事だろうか。ならば興味はない。
「ん。俺はいいや。」
「えっでもオーダマーー」
「ニコル!早くして!」
「おお。でもウィルが行かないって。」
「本人がそう言うなら、仕方ないんじゃないかな…?」
「ああもうバスに遅れちゃう!」
ジゼルとノエルがやけに急いでいる。チャバももう席を立っていた。
「でも、ウィルさ、オーダーマッチが何かわかってないんじゃーー」
「そんな事言ってる時間ないよお!」
一段と慌ただしく騒ぎ立てながら四人は出掛けて行った。どこかのイベントに四人が出て行きひとりで残る事は初めてではない。催しに関心はなかったし、ひとりで考え込める貴重な時間だ。
気付くと食堂には誰も残っていなかった。皆オーダーマッチに行ったのだろう。それ程大きなイベントだったのか。今日の午後に修練が入っていないのもその為か、とやっと気付く。『マレイン』や俗世に疎いという自覚はあったが、ここまで明らさまに痛感したのは初めてだ。気を付けなければいけないだろう。
全員という事はないと思うが教訓者も出向いたのかもしれない。静まり返った主要棟は人の気配を感じさせなかった。今日くらいは付き合っても良かったかもしれない。と、棟内中央の螺旋階段を上りながら思う。
階段を上がった二階の広間には大きな窓がある。彩り豊かに装飾された窓から光が差し込んでいる。並べられたソファに人が座って居るのを見つけて安堵したが、直ぐに間違いだったと気付く。そこにいたのはヴェロニカだった。
年に一度の『特殊人材中央養成機関』最大規模の催し事が今日『遊技庭園』敷地内で行われる。けれど私は行かないと決めていた。出向くのは自分が出場する来年でいい。どうせ結果は伝わってくるのだから。いやもう見えていると言ってもいい。なにも変わりはしないのだ。
部屋に戻る気にもなれなくて談話場に腰掛けた。西陽が斜めに差し込む。ここのステンドグラスは嫌いじゃない。偶にはそんな感性を思い出すのも良いものかもしれない。と。折角静寂に浸っていたのに階段から足音が邪魔をする。心に影が見えた。初等部に残った者がほかに居たのは意外だ。教官の誰かか。
足音が止まる。誰だろうと振り向いて酷く後悔した。朝の苛立ちが蘇る。彼の表情を見たところで午前の怒りもまた湧き上がった。よりによってこの男。"ウィル"。私の心はもう真っ黒だ。
私を見て何も言わずに部屋に戻ろうとする男に何かが切れた感じがした。
「さっきのあれは何…?」
口から漏れる言葉は自分の物なのだろうか。彼が立ち止まる。全く意外だと身を丸くしている。むかつく。
「私なんかいつでも越せると言いたいの?二項目を飛ばしても私に並んでるって…?」
武器操扱の時間の発言に対してだと合点がいったのか、思い当たった表情から気まずそうな引き攣りに移る。彼が考え込まなきゃいけない様に私も自分が何を言っているのかわからなかった。言葉を理解してまず惨めだと思った。そしてああ私はこれが不安だったのかと他人事みたいに思った。
"ウィル"はとんでもなく武器の扱いが下手。周知の事実だった。あれでは十段階評価で一を貰えるかどうかだと。学力もまた同じ。素養がないのは見て取れたし。なのになぜ何食わぬ顔で私の次に立っているのかがわからなかった。入構時の検診結果、一二〇〇あるポイントを、"次席から五十離して首席を取る"というのが我が家の伝統。それを達しているから周りに何も言われる事はなかった。けれど私は納得行かない。この男を抜かせば周りから百は離れている。たかが"ウィル"に五十程度の所まで噛み付かれている事が不満というより不可解で仕方なかった。確実にこの男に劣っている事の証明だ。許す事はできない。
無表情で無言で立ち呆ける姿も許せなかった。いつも呑気に消極的に一歩引いて澄ましている癖に、淡々と熟して悠々と私の隣に立つのだ。何も言わず無関心を決め込む姿は見下されている様だった。私の方が上なのにどこかで敗北を感じていた。こんな男にだ。むかつく、むかつく、むかつく。
「君が首席だろ。」
ほらね。馬鹿にしている。
「そうは思ってないんじゃないの。検診結果だってあなたが納得する物なんじゃないかしら。」
座学や武器なんか将来必要ないのだと、大事な部分は自分が勝っていると、心で笑っているに違いない。
「…君が見たいのなら持ってこようか。」
ふざけるな!と脳が叫んだ。私が見比べたいと思ってるとでも勘違いされたの?有り得ない。ださい。下衆らしい。やっぱり、こんなつまらない男を相手にするなんてどうかしていた。
「必要ないわ。」
もう何も見なくていい。点数だけじゃない。他の者をみる必要なんかない。どうせみんな下なのだから。
「私は修練に励んで上を目指す。あなたの能力なんて関係ない。あなたなんて関係ない。誰よりも上を目指す。」
つまらない男に引っ掻き回される事なんてない。相手が誰だろうと関係ない。私は『マレイン』で、世界で、一番になってみせる。




