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シュークリームと、帰れない世界

「着きました、ここが転移者の屋敷です」

 半之助さんはそう言って、立ち止まる。


 見上げれば、屋根はひとつではなかった。主屋を中心に、いくつもの棟が回廊で結ばれ、まるで小さな町がひとつ、塀の内側にそっくり収まっているかのようだった。障子越しに漏れる灯りの数を数えようとして、途中でやめた。この屋敷に、いったい何人が暮らしているのか、見当もつかなかった。


「ええと…ここですか?」

「こちらです」


 私は持ってきたトートバッグを肩にかけ直し、敷居をまたぐ。すると、中から和服の壮齢の女性が出てきた。その人は私を見て、

「今回の転移者様は女性の方でしたか」

と、当たり前のように言った。

(そんなに転移してる人が居るってこと?!)


「お疲れ様です、半之助さん。転移者様にお部屋をご案内してきますね」

 半之助さんはお辞儀をして、去っていく。


「さあ転移者様、どうぞこちらに」


 女性はそう言うと、私の返事を待たずに背を向け、するすると廊下の奥へと歩き出した。慌てて後を追う。


 玄関を抜けると、そこには外からは想像もつかなかった広がりがあった。磨き込まれた板張りの廊下が幾筋にも分かれ、それぞれが別の棟へと吸い込まれていく。すれ違う人影も一人や二人ではない。着物姿の女中らしき者、荷を運ぶ下男——誰もが私を一瞥するが、驚いた様子はどこにもなかった。まるで、女性が言った通り、私のような者がここでは珍しくもないとでもいうように。


「あの、失礼ですが、お名前を伺っても……」


「これは申し遅れました。私、この屋敷で女中頭を務めております、志乃と申します」


 志乃と名乗った女性は、歩みを止めぬまま、ちらとだけこちらを振り返った。柔らかな物腰の中に、どこか有無を言わせぬ芯のようなものが感じられる。


「志乃さん……あの、ここには一体何人くらいの方が?」


「さあ、何人でしょうねえ」


 はぐらかされたのか、本当に把握していないのか、志乃さんの声にはどちらとも取れる響きがあった。 廊下の角を折れると、渡り廊下が現れる。庭を挟んで見える棟の障子には、昼だというのにいくつも灯りが点っていた。


「本日はお疲れでしょうから、まずはお部屋にてお休みいただきます。詳しいお話は、旦那様が改めて」


「旦那様……」


 その言葉に、私はトートバッグの持ち手を、無意識に強く握りしめていた。



「こちらのお部屋になります、転移者様。どうかごゆっくりお休みください」


 そう言って、志乃さんは部屋の襖を開けた。


 そこには、ぽつんと丸いテーブルが置かれていた。その上にはお菓子と、大きな本が乗っている。テーブルのそばには紫色の座布団が置かれていた。


 私はひとまず、その座布団に腰を下ろし、トートバッグを床に置いた。


「シュークリーム食べよう!」


 突然訪れた転移という出来事を頭の中で整理するため、私はスーパーで買ってきた甘いシュークリームを口にした。


 一体、あの神社で何が起こったのか。そして私は、何をしにここへ来たのか。


 もしかして、この大きな本に書いてあるのかな。


 私はテーブルの上に置かれていた大きな本を手に取った。


『転移者のための読本』


(……!? なんてわかりやすい名前なの)


 私は本を開き、一ページ目から読み始める。


 異世界なのに、書かれている文字はすべて日本語だった。


 おかげで読みやすいけれど、これは私が転移者だから、その能力で読めるようになっているのかもしれない。


『すべての転移者様に、敬意をこめて。幸多かれと願います』


 一ページ目には、そう書かれていた。

 うん、うん。こういう言葉は、ゲームとかでもありそうな感じだ。


 でも、私が知りたいのは転移者を呼ぶ目的だ。

 あの神社で何が起こったのかも知りたい。


 私は二ページ目をめくった。


『転移者の目的


●羅来国の結界を維持するため、羅来国の歴史、習慣などを学び、羅来国で一生を過ごすこと』


 どうやら、これが私のすることみたいだけど……。

 羅来国の結界?

 それに何より――。


『羅来国で一生を過ごすこと』


 ……って、日本に帰れないの!?


 目的が終わったら帰国させてくれる、という話も……ないみたいだ。


 どの乙女ゲームも、攻略対象と恋人になったところで終わっている。

 その後の人生まで描かれているゲームは、あまり見たことがない。

 私は転生ならともかく、転移なら日本へ帰りたい。


 パスタも食べたいし、今攻略中の乙女ゲームだってプレイしたい。


 私は、転移する際に一緒に持ってきてしまった荷物を広げた。


 パスタ七束入りの袋が二つ。それに、シュークリームがあと一個。

 お惣菜のコロッケが二個と、紙パックのカフェオレが一個。

 そして、スマホ。


 スマホの電源は入っている。けれど、ずっと圏外のままだ。


 私、もうこのスマホでゲームできないの?

 そう思った途端、目に涙がたまってきた。


 私の日常は、突然あの神社に立ち寄ったことで変わってしまった。

 帰りたくても、帰れない。


 異世界転移……確かに憧れてはいた。

 けれど、実際に体験してしまうと、切なさばかりが募ってくる。

 私の平凡な日常は、もう帰ってこない。


「お願い! どうか私を日本に帰して!!」


 私は天井を見上げながら、涙声で叫んだ。


 家と会社の往復で、確かに刺激の少ない毎日だった。それでも、スマホの乙女ゲームをやったり、面白そうな動画を見たり……。

 私はそれなりに充実した毎日を過ごしていた。


 そんな当たり前の日常が、これからもずっと続くと思っていた。


 ……それなのに。


 襖を叩く音が聞こえてきた。


「転移者様、お茶を持って参りました」

 先程の女中頭、志乃さんの声だ。


「はい……」


 私が返事をすると、襖が開いた。


「あら……どうなさったのですか、転移者様!?」


 志乃さんは私の泣き顔を見るなり、驚いたように声を上げた。


「……私、日本に帰れないんですか……?」


 私は志乃さんの目を見る。

 志乃さんは困ったような表情を浮かべ、


「すみません……お帰りいただくことは、できないんです」


と、答えた。


 志乃さんにはっきりそう言われ、私は肩を震わせる。


「私じゃなきゃいけなかったんですか! 私……日本で、いっぱいやることがあったのに……」


「……転移者様。お名前をお聞かせください」

 志乃さんは、静かに私の名前を尋ねた。


「私は……武田さやか……です……」


「武田様……申し訳ございません。武田様の生活を奪うような形になってしまって……」


 志乃さんはお茶をそっとテーブルに置くと、深く頭を下げた。

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