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湯船の笑い声


 一日の疲れを癒やすお風呂の時間というのは、実に心地が良い物にございます。

 身体の汚れを落とし、熱いお湯で身体をほぐしていく。

 まさに、命の洗濯というものでございますな。

 

 ですが、お風呂場というのはある意味、家の中で最も「無防備」になる場所でもございます。

 

 特に、髪を洗うとき、下を向いて、両の「目」を瞑る――あの瞬間は、ひどく恐ろしい状態だとは思いませんか。


 これは、都内のマンションで一人暮らしをしている二十代の女性、マミさん(仮名)が、実際に体験したお話でございます。


 ーーーーー


 その夜、マミさんはいつもより、少し遅めの時間に帰宅いたしました。

 季節は梅雨。その日は朝からしとしとと、嫌な雨がずっと降っていたそうでございます。

 じっとりした汗と湿気を含んだ服が、身体にまとわりついて気持ちが悪い。早くシャワーでも浴びようと思い、マミさんはすぐにお風呂へと向かいました。


 自動給湯ボタンを押し、お風呂を沸かす。その間にマミさん、先に汗を流してしまおうとシャワーを浴び始めたそうでございます。

 自動でお湯が浴槽に注がれる、ゴボゴボという低い音。外で降る雨の音に、換気扇の回るブーンという低くくぐもった音。

 お風呂場に持ち込んだ防水ケースのスマートフォンからは、お気に入りのYouTuberの動画の賑やかな笑い声やBGMが浴室に響いている。

 それらの音を聞きながら、マミさんは洗い場の椅子に腰を下ろし、シャンプーを手に取ってよく泡立て、両手で髪を洗い始めました。

 

 当然、目はしっかりと瞑っております。


 ワシャ、ワシャ、ワシャ……。


 自分の指が頭皮を擦る音と、シャンプーの泡立つ音が、頭に直に響いてくる。

 動画の中では、好きな芸人がネタを披露している。

 それを耳にし、マミさんも思わずクスッと笑ってしまいました。


 ところが……、

 

「あれ?」

 

 不意に、その動画の音が、プツンと途切れたそうでございます。

 マミさんは首をかしげました。

 おかしいな、水滴でも付いて、動画が止まっちゃったかな? ちゃんとケースに入れたはずなのにな。

 

 頭に白い泡をつけたまま、ゆっくり薄目を開けて、スマホの方を振り向こうとした、まさにその時です。


 ――キャッ。


 後ろから、声が聞こえた。 


「ん?」 と、マミさんは動くのを止めました。

 ジッと耳を澄ましてみる。ですが、聞こえてくるのは浴槽にお湯を張る音や、換気扇の回る音、外の雨音だけで、他には何も聞こえてきません。

 

「……気のせい、かな?」

 

 自身にそう言い聞かせ、また、スマホの方へと向き直した。

 

 すると。

 

 ーーキャッキャッ。

 

 今度は、はっきりと聞こえました。

 それは、なんとも無邪気な赤ん坊の笑い声でした。

 ですがね、おかしいんです。

 それというのも、マミさんが住むそのマンションは単身者専用で、子供の入居は固く禁止されております。何より、その声は、換気扇や窓からではなく、明らかに「自分の真後ろ、頭のすぐ上」の空間から直に響いてきている。


 ――キャッキャッ。

 ――キャハハッ。


 その声を聞いた時点でマミさん、全身の血がサァッと引いて、シャワーで温まっていた身体が、一気に冷えていくのを感じました。

 

 ……気のせいじゃない、すぐ後ろに誰かいる!

 

 そう確信した瞬間、マミさんは意を決して、瞑っていた目をカッと開いて、勢いよく後ろを振り返りました。

 

「誰っ!?」

 

 叫びながら、バっと振り返る。

 ですが……誰もいません。

 浴室内に、マミさんの鋭い声が虚しく響きます。

 辺りを見回して見ますが、当たり前ですが、狭い浴室に隠れるところはございません。

 静まり返った浴室に、お湯の沸く音、換気扇の音、外の雨音が、冷たく木霊します。


 やがて、

 

『お風呂が沸きました♪』


 給湯器から、あの電子音の、軽快なメロディが流れました。

 

「……なんだ、やっぱり気のせいか」

 

 マミさん、ホッとして、自身の胸を撫で下ろしました。

 

 (ーーそうだ、きっと疲れているんだ。早くお風呂に浸かって、今日は早く寝よう)

 

 そう考え、正面を向き直し、湯気で曇った鏡を、手でキュッ拭った、その瞬間でございます。 


「ーーヒッ」

 

 マミさんは息をする事すら忘れ、その場に凍りつきました。

 

 いる。

 

 鏡の中に、映っている。

 

 マミさんの真後ろ、さっきまで何もなかったはずの空間に、真っ黒な人の形をした、「影」のようなものが、ぽつんと立っている。


 その影は、大人の男ほどの背丈があるんですが、ぐぐぐぐ……と、不自然に身を屈めて、座っているマミさんの頭を、上から覗き込むような姿勢をとっている。

 

 そして、その真っ黒な影の、ちょうど顔にあたる部分に、ぽつりと。


 肌色の、ふっくらとした「赤ん坊の顔」が張り付き、じいっと、鏡越しに、マミさんの顔を見つめている。

 マミさんが恐怖のあまり、動かせずにいると、その顔が、小さな目を三日月のように細めて、

 

 ーーキャハ、キャハハハ!


 口を耳元にまで裂くように広げ、猿のように笑ってみせた。

 歯のない濡れた赤い口内から、浴室全体を震わするような狂った笑い声が響く。


 ――キャハハハハハハハハハッ!


「ーーいやあああッッ!!!」

 

 マミさんは悲鳴を上げ、そのまま浴室を飛び出したそうでございます。

 背後ではずっと、あの耳をつんざくような笑い声が響いている。

 衣服を身に纏うも、身体を拭く事もできない。

 取るものもとりあえずそのまま、玄関の冷たい床の上で朝までガタガタと震えていたそうでございます。


 ーーーーー


 その後、マミさんは急いでマンションを引き払い、別の場所へとお引っ越しされたようです。

 ですが、それ以来、シャンプーをする時はいつもシャンプーハットをかぶるか、鏡を見ず、壁に背を預けて洗っているそうです。

 

 果たして、マミさんが見た物はなんだったのか。


 もし、土地や場所に根付く物……ではないのなら、皆さん、髪を洗う時は、どうかお気をつけください。


 もし、赤ん坊の笑い声が聞こえた、その時は……決して、振り向こうとしないでください。

 お付き合いいただき、誠にありがとうございます。


 続く第三話は、30分後の【21時10分】に更新させていただきます。


 今しばらく、この暗闇の中をご堪能ください。

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