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第3話 夕暮れの招待状

 職場の同僚たちの、好奇の視線が痛い。

 あんな綺麗な女性が、俺みたいな男を訪ねてくるなんて。

 天変地異でも起きる前触れだと思われているに違いない。


「……あの、ここでは何ですから。外へ」

 俺は彼女と、その息子さんを連れて。

 倉庫の裏手にある、小さな休憩スペースへと移動した。


 吹き抜ける風が、埃っぽい倉庫の空気を押し流していく。

 男の子は、もう熱も完全に下がったのか。

 俺の、オイルと泥が染み付いた作業着のズボンを、興味津々で見つめている。


「おじちゃん……あ、おにいちゃん。パンダさんは?」

「あ、あれは、お家に置いてきたんだ。……びっくりさせて、ごめんね」


 俺がアスファルトに膝をつき、屈んで目線を合わせると。

 男の子は、ぱあっとひまわりが咲いたような笑顔になった。


「パンダさん、かっこよかったよ! しゅばばばって、運転してた!」


 かっこいい。

 生まれて初めて言われた言葉が、パンダ姿の時だなんて。


 嬉しいような、ひどく情けないような。

陽太ひなた、あんまり困らせちゃダメよ」

 彼女が、鈴の鳴るような声で息子を嗜める。


 その横顔は、昨夜の悲痛な表情とは別人のように。

 穏やかで、吸い込まれるほどに美しかった。


 彼女は、手元にある俺のジャンパーを見つめながら、そっと胸の内で思っていた。


(……昨夜は、本当にこの人に救われた)


 土砂降りの中、立ち往生する自分たちの前に現れた奇妙なパンダ。


 最初は、あまりの怪しさに悲鳴を上げそうになった。


 けれど、差し出された手は驚くほど大きくて、温かくて。

 何より、必死に自分たちを助けようとするその瞳に、嘘がなかった。


(あのまま誰も来なかったら、私はどうなっていたんだろう。

 この人は、私たちの命の恩人。……それに、こうして見ると……)


 作業着に身を包み、所在なさげに縮こまっている俺の姿。

 決して洗練されてはいないけれど。

 厚みのある肩や、仕事で鍛えられた大きな手。

 その「実直さ」が滲み出る佇まいに、彼女は不思議な安心感を覚えていた。


「あの、昨夜は本当に動揺していて。

 お礼もまともに言えず、失礼いたしました」

 彼女は、細い肩を揺らして深々と頭を下げた。


「いえ、俺こそ……あんな不審な格好で。

 怖がらせたんじゃないかと、ずっと後悔してたんです」

「怖いだなんて、とんでもない。……あの時の私には。

 あなたが、どんな物語の主人公よりも、頼もしい騎士に見えました」


 騎士。

 パンダの皮を被った、ただの夜勤明けの男なのに。

 俺は照れ臭さを通り越して、耳の裏まで真っ赤になるのが分かった。

 彼女は、

少しだけ言いづらそうに。

 でも、逃がさないと決めたかのような瞳で俺を見つめる。

「……勝手なお願いなのは、重々承知しているのですが。

 今度の土曜日。我が家で、夕食をご馳走させていただけませんか?」


 夕食。

 彼女の家で。

「あ、いや! そんな、悪いです。

 ジャンパーも返してもらいましたし、それで十分ですから!」

 俺は、慌てて両手を振った。


 自分に自信がない。

 彼女のような眩しい人と、これ以上関わるのが怖い。

 

 また、いつもの「無害なモブ」に戻るべきなんだ。

 期待して、後で自分の分不相応さに絶望するのが一番きつい。


 しかし。

 俺の拒絶を遮るように。

 男の子が、俺の大きな手を、小さな指でぎゅっと握った。

「おにいちゃん、こないの……? ぼく、ハンバーグつくるよ?」


 小さな、温かい手のひら。

 期待に満ちた、真っ直ぐな瞳。

 

(このまま帰しちゃダメだ。……また、一人に戻ってしまう)

 彼女も、知らず知らずのうちに祈るような心地で俺を見つめていた。

 離婚してから、自分たちを「利用しようとする人」や「哀れむ人」にはたくさん会ってきた。

 でも、こんなに不器用で、利益も求めず。

 ただ純粋に助けてくれた人は初めてだった。

 断るための言葉が、喉の奥に引っかかって消えていく。

 

「……あ……」

「……陽太も、私も。

 あなたに、ちゃんとお礼がしたいんです。……ダメ、でしょうか?」

 首を少し傾げて、覗き込むような彼女の眼差し。

 お日様の匂いと、微かに混じる甘い石鹸の香り。

 それが、俺が頑なに閉ざしていた心の扉を、静かに溶かしていく。


「……じゃあ。お邪魔しても、いいんでしょうか」

 その言葉を口にした瞬間。

 男の子が「やったー!」と、駐車場で精一杯跳びはねた。

 彼女は、心から安堵したように。

 そして、少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「はい。お待ちしていますね」

 渡された手書きのメモには。

 丁寧な字で、住所と電話番号が記されていた。

 俺の、何もない休日。

 昼まで寝て、カップ麺を啜って終わるはずだった週末が。

 

 かつてないほど、恐ろしく、そして――。

 死ぬほど待ち遠しいものに変わった。

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