第2話 ヒーローの落とし物
「阿久津誠さん、という方はいらっしゃいますか?」
倉庫の入り口で、彼女がそう言った瞬間。
騒がしかった現場の空気が、一瞬で凍りついた。
大型ファンが回る音だけが、虚しく響く。
そこに立っていたのは。
昨夜の、あの女性だった。
雨に濡れていた髪は綺麗に整えられ、
落ち着いたブラウスが、彼女の清楚な美しさを際立たせている。
彼女の腕には、綺麗に洗濯され、畳まれた俺のジャンパー。
そしてその隣には。
頭に冷えピタを貼った小さな男の子が、彼女の手を握って立っていた。
「阿久津? ああ、あそこの隅っこにいる地味なやつ……」
警備員が、怪訝そうな顔で俺を指さす。
「おい、阿久津! お前宛だぞ!」
名前を呼ばれ、俺は逃げ場を失った。
全身、埃と汗にまみれた作業着。
寝癖も直していない、冴えない顔。
対する彼女は。
逆光の中に立つ、天使のように見えた。
彼女と、目が合う。
彼女の瞳が、驚きと……
そして、柔らかな喜びでパッと輝いた。
「……見つけました。パンダのヒーローさん」
彼女は、凛とした笑顔で俺に歩み寄ってくる。
「昨夜は本当に、ありがとうございました」
周囲の作業員たちが、一斉にこちらを見た。
「おい、あの美女誰だよ……」
「阿久津の知り合い? 嘘だろ、あいつ女と話してるとこ見たことねえぞ」
刺さるような視線。
俺は顔が火が出るほど熱くなるのを感じた。
「……ど、どうして、ここが……」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。
彼女は、俺のジャンパーのポケットから。
一枚のプラスチックカードを、そっと取り出した。
「これ。入館証が入っていました。……それと」
彼女は、隣にいる男の子の背中を優しく押した。
男の子は、恥ずかしそうに。
でも、真っ直ぐに俺を見上げて言った。
「パンダのおじちゃん! たすけてくれて、ありがとう!」
その純粋な言葉が、俺の胸の奥深くに突き刺さる。
「……おじちゃん、じゃないですよ」
彼女が苦笑いしながら、俺の目を見つめた。
「阿久津さん。これ、お返しします」
差し出されたジャンパーからは。
俺の家の洗剤とは違う、お日様のような良い匂いがした。
「……それから。もしよろしければ、きちんとお礼をさせていただけませんか?」
モブ人生、三十年。
俺の物語の歯車が。
制御不能なスピードで回り始めた音がした。




