第1話 脱げないパンダと、雨の日の聖母
俺の人生は、ずっと「モブ」だった。
クラス写真では常に端の方。
卒業アルバムの寄せ書きは「元気でね」の一言。
30歳を過ぎて、誕生日に俺を祝ってくれるのは、
コンビニのセルフレジから流れる「ありがとうございました」という無機質な音声だけだ。
身長は平均。顔は中の下。
おまけに極度の人見知り。
そんな俺、阿久津誠が、今——。
「あの……本当に、大丈夫ですから……っ」
「いいえ。このままじゃ、あなたも、その子も危ない」
なぜかパンダの着ぐるみを着たまま、
土砂降りの山道で、ずぶ濡れの美女が
男の子を抱っこ している。
その 女性の体をささえながら車までゆっくりと歩いている。。
おかしい。
こんなはずじゃなかった。
今日は地元の幼稚園のボランティアだった。
「子供に笑顔を!」なんて柄にもないことを考えた報いだろうか。
帰り際、背中のチャックが裏地の布を噛んで完全に固まった。
格闘すること三十分。
結局、頭部だけをなんとか力技で外し、
俺はパンダの胴体のまま、軽トラを走らせていたのだ。
首から上は冴えない男。
首から下は、雨に濡れて重たくなったパンダ。
そんな「不審者一歩手前」の俺の前に、
ガードレールを突き破りかけた一台のワゴン車が現れたのは、ほんの十分前のことだ。
「……はぁ、はぁ……っ。すみません、こんな格好の男に……」
「いえ、助けていただいて……。息子が、急に熱を出して……」
身体から伝わる、彼女の細い震え。
そして彼女の腕の中で、苦しそうに荒い息を吐く小さな男の子。
俺は自分の軽トラの助手席に、彼女と子供を押し込んだ。
バタン、とドアを閉めた瞬間。
狭い車内に、重たい雨の匂いと、
彼女の髪から漂う、かすかな石鹸の香りが充満する。
助手席の足元には、シュールに転がるパンダの頭部。
窓ガラスは二人の体温ですぐに白く曇り始めた。
「っ、しっかり掴まっててください!」
俺は必死にハンドルを切った。
指先がハンドルに食い込み、パンダの毛並みがじっとりと汗ばむ。
普段、物流倉庫のフォークリフトで培った、
「最短ルートを見極める目」と「空間把握能力」だけが頼りだ。
ガタガタと揺れる軽トラ。
ワイパーが悲鳴のような音を立てて雨を弾く。
「……ごめんなさい、私……いつもこうなんです」
不意に、隣で彼女が呟いた。
横目で見ると、彼女は子供を抱きしめたまま、
今にも消えてしまいそうな顔で笑っていた。
「一人で大丈夫だって、無理して……。
結局、誰かに迷惑をかけて……。私、母親失格ですね」
その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
彼女の指先は、白くなるほど強く子供の手を握っている。
細い肩を丸め、必死に子供に体温を分け与えようとしている。
それがどれほどの孤独な不安と戦ってきた証か、
恋愛経験ゼロの俺にだって、痛いほど伝わってきた。
「……失格なんて、言わないでください」
俺は、自分でも驚くほどはっきりとした声を出していた。
「あんな雨の中、あの子を必死に守りながら立ってたじゃないですか。
……あなたは、あの子にとって、間違いなく世界一のヒーローですよ」
彼女が、目を見開いて俺を見た。
ダッシュボードの微かな明かりに照らされた、彼女の瞳。
長い睫毛に付いた雫が、宝石よりも綺麗に光った気がした。
「……パンダさんに言われると、説得力ありますね」
ふっと、彼女の口元が緩んだ。
皮肉なもんだ。
30年間の人生で、女性を初めて笑顔にできたのは、
この不恰好で、滑稽な着ぐるみのおかげらしい。
*
病院の明かりが見えてきた。
俺はアクセルを踏み込む。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。
この突拍子もない出会いが、
俺の「モブ人生」を根底から覆す物語のプロローグになるなんて。
病院の軒先に軽トラを滑り込ませ、俺は叫んだ。
「すみません! 急患です! 子供が熱を!」
すぐに看護師たちが駆け寄ってくる。
ストレッチャーに乗せられて運ばれていく男の子。
彼女――奈緒さんも、フラフラとした足取りでそれに続こうとした。
「……あ、あの!」
俺は呼び止めた。
パンダの着ぐるみのまま、情けないほど必死な声で。
「これ、使ってください。濡れてるから、風邪ひきます」
俺が差し出したのは、仕事用の分厚い防寒ジャンパーだった。
着ぐるみのせいで中身は汗だくだが、表面はまだマシだ。
「……ありがとうございます。あの、お名前を……」
「あ、いいんです。そんな、名乗るようなもんじゃ……」
俺は逃げるように軽トラに飛び乗った。
だって、今の俺は「首から上が人間で、体がパンダ」という世にも奇妙な格好なのだ。
これ以上ここにいたら、感動の再会どころか通報される。
「お、お大事に!」
ギアをバックに入れ、俺は雨の夜へと消えた。
数時間後。
自宅のアパートで、格闘の末にようやく着ぐるみを脱ぎ捨てた俺は、
泥のように布団へ倒れ込んだ。
「……何だったんだ、一体」
天井を見つめる。
手のひらに残る、あの時のハンドルの震え。
鼻腔に残る、彼女の儚い香りの残滓。
モテない、自信ない、取り柄もない。
そんな俺の日常に、あんな綺麗な人が現れるはずがない。
「……夢だな。うん、夢だ」
自分にそう言い聞かせて、目を閉じた。
だが、俺は忘れていた。
彼女に貸したジャンパーの胸ポケットに、
『勤務先の物流倉庫の入館証』が入ったままだったことを。
そして、パンダの着ぐるみの胸元に、
幼稚園の先生が書いてくれたデカデカとした名札――
『あくつ まこと』
それが、彼女の記憶に強烈に焼き付いてしまった。




