第4話 初めてのチャイム
土曜日の午後。
俺は、生まれて初めて「服を選ぶ」という苦行に、一時間以上も費やしていた。
といっても、持っているのは無難なTシャツとチノパン、あとは仕事用の予備のシャツくらいだ。
それでも、何度も鏡の前で寝癖を直し、
清潔感だけは損なわないようにと、何度もシャツの襟を正した。
(……いや、これじゃあ、気合いが入りすぎているように見えるか?)
少し襟を崩してみる。
すると今度は、だらしなく見えて不安になる。
結局、最初と同じ状態に戻し、俺は鏡の中の「冴えない自分」を見て深いため息をついた。
手には、途中のデパートで買った、小さな焼き菓子の詰め合わせ。
店員さんに「贈り物ですか?」と聞かれ、
「あ、はい」と答えるだけで、顔から火が出るほど赤くなった。
モブ人生三十年。
女性の家へ招待されるなんて、宇宙人に拉致されるより確率の低い出来事だ。
心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っているようにうるさい。
指定された住所は、駅から少し歩いたところにある静かなマンションだった。
オートロックの前に立ち、俺は三分ほど立ち尽くした。
(……今ならまだ、急用ができたって嘘をついて逃げられるんじゃないか?)
そんな卑怯な考えが、頭の隅で何度も渦巻く。
場違いだ。俺なんかが、あんな綺麗な人が住む場所に入るなんて。
けれど。
あの時、握りしめてくれた陽太くんの手の温もり。
そして、彼女が浮かべた、あの安堵したような微笑み。
それを思い出すと、どうしても踵を返すことができなかった。
俺は震える指を伸ばし、部屋番号を押し、呼び出しボタンに触れた。
『はい、どなたですか?』
インターホン越しでもわかる、あの透き通った声。
一気に血圧が上がるのがわかる。
「あ、あの……先日、お会いした……パンダ……じゃなくて、阿久津です」
噛みまくりの情けない自己紹介に、受話器の向こうでクスクスと笑う気配がした。
『ふふっ、お待ちしていました。今、開けますね』
ガチャリ、という解錠音が、俺には処刑台の階段を登る合図のように聞こえた。
三階の、突き当たりの部屋。
ドアが開くと同時に、食欲をそそる香ばしい匂いが廊下まで溢れ出してきた。
それは、コンビニの揚げ物の匂いとは違う、誰かが誰かのために作る「家庭の匂い」だった。
「いらっしゃい、阿久津さん。どうぞ、入ってください」
エプロン姿の彼女が、そこにはいた。
職場で見せた綺麗めなブラウスとは違う。
少し使い込まれた淡い色のエプロンと、後ろでラフにまとめた髪。
その「生活感」のある姿が、かえって彼女の美しさを際立たせていた。
(……ああ。本当に、実在する人なんだな)
彼女の家に入った瞬間。
俺は玄関に飾られた小さな花や、綺麗に並べられた子供用の靴を見て。
自分がどれほど異質な場所に、土足で踏み込んでしまったのかを痛感した。
(私の家、独り身の男の部屋とは大違いだ。
埃一つ落ちていないし、空気まで柔らかい。
俺なんかが、ここに座っていいんだろうか……)
一方の彼女、奈緒さんは、緊張で直立不動になっている阿久津を見て。
不安と、少しの愛おしさが混ざった感情を抱いていた。
(私……ちょっと張り切りすぎちゃったかな。
彼、すごく緊張してる。……でも、私のために服を選んできてくれたのかな。
少しだけ整えられた髪を見て、なんだか胸の奥が熱くなる)
彼女にとっても、自宅に男性を招くのは、離婚以来初めてのことだった。
この数年間、自分を守るために必死で張ってきた「壁」が。
目の前の、不器用そうに手土産を差し出す男の前で、少しずつ崩れていくのを感じていた。
「パンダのおにいちゃん! きたーーー!」
沈黙を破ったのは、廊下を走ってきた陽太くんだった。
彼は迷わず、俺の足にしがみついてきた。
「あ、陽太くん。……これ、よかったら。皆で食べて」
俺はお菓子の袋を差し出す。
陽太くんは目を丸くして「わあ! おいしそう!」と声を上げた。
「阿久津さん、お気遣いありがとうございます。……さあ、どうぞ中へ。
ちょうど今、ハンバーグが焼き上がったところなんです」
彼女の言葉に促され、俺は借りてきた猫のように。
ダイニングテーブルの端の方、椅子に申し訳なさそうに腰を下ろした。
目の前に並ぶ、彩り豊かな手料理。
湯気が立つハンバーグに、丁寧に盛り付けられたサラダ。
コンビニ弁当とカップ麺が主食の俺にとって。
それは、絵画のように美しく、眩しすぎる光景だった。
(……信じられない。
つい数日前まで、俺は夜勤明けに一人でパンダを脱げずに泣きそうになっていた。
それが今、こんなに綺麗な女性と、可愛い子供と一緒に、食卓を囲もうとしている)
これがもし夢なら、どうか冷めないでほしい。
いや、むしろ、現実だと確信するのが怖かった。
「……いただきます」
震える手で箸を持つ俺を。
奈緒さんは優しく、見守るように見つめていた。
(……阿久津さん、本当に一口食べるだけで顔が綻んで。
あんなに美味しそうに食べてくれるなら、昨日から仕込んでよかった。
この人の前では、私は「強い母親」じゃなくて、ただの「私」でいられる気がする)
この温かい明かりの下で。
俺の、止まっていたはずの時計が。
重い音を立てて。
ゆっくりと、、確かに動き出そうとしていた。




