幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(42)
其 四十二
「辨次郎という男は何かにつけて少しも抜け目の無い、気配りの出来る賢しい人で、他人が半分話をすれば、後は大概承知をしてしまうという怜悧者。
私を引き取ってからも、何一つ不自由はさせず、お客様扱いで置いておき、本人は一日あっちへ行ったりこっちへ行ったりして駈け歩き、乳母、子守の口入れから、旅芸者、茶屋女、娼妓の周旋など、何にかかわらず飛び回っていますが、家はといえば、火鉢一つ、竈一つだけというがらがらの住居。もちろん、身なりは見苦しいということはありませんが、稼ぐ割にはあまりにもおかしいところのある生活振り。最初は私もよく分かりませんでしたが、その後解ってみますと、何でも素性に曰くのある、それ相応の容貌の若い女に家を持たせて囲ってあるので、それに何もかもつぎ込んで、住居の方は商売をするだけの場所にしてあるのだと、合点が行き、こういう生活もあるのだなと思いました。
平九郎の手から辨次郎の手に渡された私はすることも無く、二日、三日、四日、五日と、日を重ねて行きますけれども、辨次郎は私に何かを言う訳でもなく、ただそのままにしておきますので、私も居づらくて、ある日こちらから『どうにかならないのですか』と、口を切りました。が、辨次郎も首を傾げて、困ったような顔つき。『他でもない兄弟同様に交際っている平九郎が困っているのを見るに見かねて、彼の女房に頼まれたので、厭とも言えず、お前をここに連れてきたものの、堅気なところでは金を出さないのはどこも同じ。最初に平九郎が扇面亭の様子を詳しくお前に言わなかったのは、手脱けとは言うようなものの、田舎の茶屋女で前金を沢山出すと言えば、言わずと知れた『曖昧事』をするものと解りきっているのに、そんなことはないと思っていたお前の方も手脱けでないとは言い切れない。それを今言ってもどうなるものでもないが、理屈はこんなものさ。ところで、扇面亭としては出した金を取り戻さずにはいられないというのも道理だ。お前の方は入用があって、借りた金が残っているはずもなし。平九郎は仲に立った口銭の他、一文の得もしていないが、差し詰め扇面亭からは矢の催促。幾らお前を責めても仕方がないので責められもせず、世話した玉に故障があって、そして、その前金が戻せないなどと言われた日には、仲間から弾き出されて商売も出来なくなろうという切羽詰まったことになった。どうにかならないかと泣きつかれて、私も仕方なく、とにかく俺の方へ寄越しておけ、頑張って口を捜してやろうと、お前を引き取りはしたものの、なかなか甘い口はなく、今でも平九郎は責められ通し。智恵分別の底をはたいてもどうにもならないのが金銭というものだ。お前に何か考えはあるか』と反対に先方から相談されて、戸惑う他何もなく、弱り切っていれば、『それなら仕方がない。ちょっとヤバいことだが、お前、一時身を隠していてくれ。隠れているところに俺が心配するくらいにじっと隠れてくれさえすれば、肝心の玉が逃げてしまって、何とも仕方がないので、捜し出すまで待ってくれと、扇面亭の方へはちょっと先延ばしに延ばしておいて、そのうち好い口を見つけ次第、前借をして、その金を返すという段取りにしよう』と言いますので、私にはどうしようもなく、どうかよろしくお願いしますと、辨次郎の言うなりになりまして、預けられた先は、前に話した妾の家。何もすることがなく、ただ寝たり起きたりしていますと、昨日の昼頃平九郎がやって来たのです。『大金を出してもお須磨という女を引き取らなければ男が立たぬ。俺はお須磨と言い交わした情郎だと言う怖ろし気な、大きい方が私のところへ今見えて、さあ、お須磨を出せ、ここへ出せ、一旦預かったテメエの口から知らないとは言わせない。どこへ遣った。直ぐ連れてきたら、とにかく先ず話は後にして、テメエに五両の骨折り賃を遣る。しかし、お須磨の行く先がどうしても分からないということなら、テメエと辨次郎を訴えて、誘拐犯に落としてくれると、法律攻めと金責めにされて、私は抵抗えず、辨次郎兄貴は今他所に出て不在なので、相談する間もなし。どうか、ちょっと私の家までお須磨様、来て下さい』と、狼狽きって、揉み手で頼むのです。私は吃驚呆れ果てて、私にはそういう情郎はいないし、覚えもないと言い張ったのですが、平九郎はもう夢中になって、『私が五両もらえるか、誘拐犯で辨次郎と二人訴えられるかの瀬戸際。是非、是非、ちょっと来て』と、無理矢理私を引き出します。エエ、もうどうなってもと、怪しいその男に一応会ってみようと覚悟を決めまして出て行き、会ってみれば、平九郎の家の中央に坐っておられたのが彼の鎌九郎様。がっしりした体格、威のある容貌、見るからに恐ろし気なので、私は胸を轟かせて平九郎の背後に隠れていれば、鎌九郎様は私を見るなりそれと察してか、つかつかと立ち上がって、鷲掴みに私を引き寄せて、釣鐘のような声も朗らかに、『お須磨、安心しろ、もう大丈夫だ。狐狸等の穴にはもうお前を落としはしない。奴等には食わせない。平九郎、来い。五両遣るぞ』と言うかと思えば、栄螺殻のような拳を固めて平九郎の横面を突然強く叩き、平九郎が驚き怒るのを見下しながら、『おい、野郎め、これ、五両では拝謝をしないな。まだ不足なら十両にも二十両にも増してやろう』と、猫の子でも扱うように襟髪を取って、膝に引敷き、大の拳で又一つ、『どうだ、野郎』と、又一つ。見る見る平九郎の頭は隆起て、仏像の螺髪のようになりました」
つづく




