幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(35)
其 三十五
誰の家かは分からないが、雲間を洩れる星の光に透かしてみれば、棟高く、軒周りも大層伸びやかで、何にしても華族か偉い人の住居に違いないと、幼い眼にも分かった。最近、塗り替えか何かの工事が入って、今もまだその最中であるような大きな土蔵に足場が掛かり、苫(*菅・茅などを薦のように編んで小屋の屋根や周囲を蔽い、雨露をしのぐためのもの)などが、あちらこちらに葺き掛けてあるのが闇の空に高く立っていた。
歯の根も合わず震えていた榮太郎は、早くも虎の顎に腰掛けているような気がして、進もうにも退こうにも自分からはどうすることもできず、羽織に包んだ下駄を持って、茫然と立っていたが、袖を引き引き、十郎は榮太郎を敷地の隅の方にある物置か従者待(*家の門口に設けた来客の従者、運転手などを待たせておく所)とも思える一ト棟の小屋の傍に誘って、
「さあ、ここにいればお前は安心。もし、屋の中が騒がしいと見たなら、今の出口から出て、静かに北の方へ行け、決して走るな、慌てるな。あれだ、あの星が北の方角だ。そして、人車が居たら、昼間の宿屋まで乗って行って、新橋ではぐれてしまったと言って、そのまま黙って泊まっていろ。それから、お前に大事な頼み事がある。他でも無いが、ここに礫が三つある。もし、家の中の人が騒いで、大勢雨戸を開けて出そうに思えたら、あそこの蔵の屋根へ必ず一つ投げてくれ。俺はあそこの蔵の屋根から入り込むのだ。一つで屋根へ届かなかったら、逃げながらでもいい、どこの塀でもいいから二つ投げてくれれば、静かなこの夜中、起きている俺が分からないはずがない。早く分かれば素人の五人や十人は投げ退けてもきっと明日にはお前に会う。いいか。慌てるな、走るな。礫三つだぞ。忘れるなよ」と言い終えて、返事も聞かず立ち去る十郎。猿のように土蔵の足場をよじ登ったようだが、姿は早くも苫と闇とに掻き消されて、後はただひっそりと、天地も死んだように静かである。あれが北だと指さして教えてくれた一つの星は瞬いて、消えたかと思うと、又明るくなったりして、打ち仰いで見る榮太郎の額を冷たい光で射し照らした。
『この家の主人はどんな人なのだろう。あの十郎はどうやってこの堅牢な蔵を破るのだろう。蔵を破るのか、他の所から入るのかは分からないけれど、罪もないこの家の主人の宝を奪うとは、ああ、悪いこと。良くないことだ』と思うと、榮太郎はどんどん想像力をたくましくして、『ああ、奪られて困らない人はいないだろうに。家でも往時柳島へ移ったその夜、盗賊のため、我が家に伝わる色々な宝物を奪られてしまい、遂に出て来なかったと、母様がお話しされたのを聞いたことも一度や二度ではない。ああ、この家が可哀想だ。あの十郎は虎か狼だ。俺には優しいようだが、どうやっても好い人ではあるまい。平気で威張って人の物を取るというのが好いことか。ああ、悪徒、大悪徒だ。勇造よりも悪い奴だ。畜生、俺を悪徒の弟子にしようとする悪徒、大悪徒だ。大悪徒だ。声でも立ててこの家を助けてやろうか、救ってやろうか。エエ、なぜ俺はあんな奴と一緒になってここまで来たのだろう。アッそうだった。口惜しいことを俺はしてしまったのだった。昨夜のようなことさえ俺がしなかったら、こんな男に連れられずに済んだものを。アア、何もかも俺が悪い。あの大事な母様のたった一人の子のこの榮が大悪徒の弟子にされて、今、盗賊の手伝いをしているというのか。エエ、口惜しい。アア、悪かった、間違った。もうこの榮はこれから一生、悪徒の仲間に入ってしまって、真面な人になることは到底できなくなってしまったか。アア、あのお星様が神様なら、どうかお助けください。悪徒の傍から榮を離して、母様の傍へ遣ってください。それから後は死んでもいい。昨夜は、私が大変悪いことをいたしました。どんな罰でもお当てくださって、そして許してくださいませ。死んでも決して神様をお恨みはいたしませんが、どうか今一度、生きている中に母様に会いとうございます』と、どこを目的とはしないけれども、人の最後の念慮には神の御影が映すものか、漆のように真っ黒な闇に佇んで、偽りのない熱誠の涙をほろほろと、音も立てず地に落として我を忘れていたけれど、その時、肩を叩かれてハッと驚き、身を動かせば、
「これ、榮太郎、多分詰まらないことを考えていたのだろう。さあ、もういいわ。何だ? 鼻をずくずくさせて、ハハァ、泣いていたな。これ、まあ道理なことだが、涙では団子一ト串も売ってはくれない酷い世界よ。泣いてどうなるものではないわ」と。
つづく




