幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(34)
其 三十四
夜食の膳も出たけれど、同伴者と離れた身は心細く、ただ一人箸を取っても、物を食う力さえ無くなって、先に胸が塞がり、汁も鱠も喉を通らず、そこそこに茶を飲んでお終いにして、空しく十郎の帰りを待っていた。
八時が過ぎ、九時も過ぎたけれど、音沙汰は無い。もしや、自分を棄てて、そのままどこかへ行ってしまったのか。まさかあの人がそんな無慈悲なことはしないだろう。いやいや、政府の役人を肌の虱か何かのように言う人のことだから、もしかして途中、取り押さえられたりはしていないだろうか、とも疑う気持ちも少し起こってきて、ますます心配になってきた。と、そんなところへ、たちまち足音荒く、襖をがらりと引き開けるのを、誰かと見れば、その男、十郎であった。
待ちに待っていた所だったので、喜悦の色を面に湛えて、
「おう、お帰りになりましたか」と立ち迎えれば、十郎も溢れるばかり、満面に笑みを含んで、
「やれ、待ち遠しかっただろう。さあ、もうこの地の用は済んだ。これから横浜に行くだけだ。どうだ、小僧よ、俺の不在によく寝られたか。 何? 寝入っただと? ハハハ頼もしいところのある奴だ」と、機嫌よさげに話しながら、勘定も済ませて、人車で一ト飛、新橋という賑やかなところに着いた。
横浜というところまで連れて行かれるのか、ああ、もう今日で二日経つ。家ではきっと母様が辛配しておられよう、と思う間もなく、手を取られて、引き摺るように引き廻され、横浜に行くのかと思いの外、横浜から汽車が今着いて、人がぞろぞろ各自が目指す方へと立ち去る群に入り、今したが着いた新橋を背後にした。そして、一、二町行くと、すぐに又、人力車を雇って、麹町のとあるところまで走らせた。
今夜は空も打ち曇り、雨を含む雲が覆いかぶさって、月はまったく光を洩らさない。ここはどこなのか分からないが、門構えの大層大きな家だけが列んでいる。道を行くのは角燈を提げた巡査である。その靴音も淋しく、時節柄警戒のための巡回をしているだけだが、榮太郎は薄気味悪く、ぴったりと十郎に寄り添って歩いて行った。
目指すところがあるのだろうが、物も言わない十郎は、時折榮太郎に問い掛けられても答えもせず、足並み正しく道路の中央を歩いて、しばらく行くが、どの家の門前に立ててある燈火の光もまったく届かない暗いところで立ち止まり、榮太郎の耳に口を寄せ、
「さあ、榮太郎、しっかり頼むぞ。俺はテメエに盗賊はさせないが、俺は働くのだ、ここの家でな」と、恐ろし気な低い声に力を強めて告げれば、告げられて榮太郎は慄え出し、全身から冷や汗を流して、
「私はどうすれば……」と訊こうとする間にも、身を起こした十郎は、早くも丈の高い黒板塀の手掛かりも無いように見える塀に取り付き、壁銭蜘蛛か何かのように、不思議にも這い上ったかと思うと、たちまち身を跳らせて、音もさせずに中に入った。
一人取り残されて、驚き当惑する榮太郎は何も考えられず、ただ裏面の様子を耳を立てて伺うばかり。向こう側も塀の際に寄って、耳語らしく、忍び声で、
「それ、その、そこの羽織と下駄を持って右へ伝って行け」と、声がする。これに初めて気づいて、いつの間に羽織と下駄を捨てたのかと呆れて足下の闇を捜ると、成程、確かに二品落ち散ってある。今更逃げようとするだけの勇気も無いこの身、言われるままに拾って塀を右へと伝って行くと、塀はたちまち戸一枚だけ音も無く内側から開いた。不思議と思っていると十郎は指先でもって塀を叩きながら、「来い」と招くようであった。近づいてみると、闇ではあるが、あの十郎は黒闇でも眼が見えるかして、榮太郎の袖をむずと、掴んで引き入れる。引かれるままに中に入れば、塀は最初のように閉じられ、少しの変異も見せなかった。
榮太郎はただただ舌を巻いて驚嘆しながら、塀を探って考えると、ここはもともと表口とも裏口とも思えず、非常口か何かなのだろう。ただ一面塀としか見えない中に一枚だけ開く戸があって、そこは中から錠が下ろされていたと思われるが、その甲斐もなく、錠は十郎によっていとも簡単に解かれてしまったようである。
つづく




