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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(36)

 其 三十六


 自身を悔やんでの悔し涙は、闇の中なので、十郎に見えるはずも無く、

「さあ、もう、俺の用は済んだ。怖いことは無い。ついて来い」と、手を取られて曳かれれば、

『おのれ、この大悪(おおあく)(とう)め』とは思いながらも、振りもぎるだけの意地も張れず、前と同じく魂が抜けたようになって、言葉も無く従ってついて行くだけである。仕事も既に終えたとのことだったので、どこかに落ち着くだろうと思っていたのだが、そうではなく、十郎の虎狼(とらおおかみ)は辺りを見廻し、小声になって、

「お前はきっと疲れたとは思うが、もう一軒俺が見て置いた仕事をしようというところがある。それさえ済ませば、俺の肩に掛かっている大事な用も済むので、後はお前の悩みも全部片付けてやる。苦しいとは思うが、それ程でもあるまい。是非やってくれ。それから先はお前を極楽に入れてやる」と言いながら先へ立って歩けば、(むご)いにも程があるもの、他人(ひと)の蔵を破ってもなお足らず、どれだけ()れば足るというのか。もう一軒悩まそうとは虎より非道(ひど)強欲無慚(ごうよくむざん)と呆れて、眼を見張ったが、喉まで出かかってもそれを非道と言い切る一言(ひとこと)は口から出せず、ただただ気の進まないまま後へと下がり勝ちになるだけであった。


 けれども、悪魔の十郎めに、

「どうした、可哀想に足が()えたか。今更何とも仕方がない。やるところまでやってしまわないと、中途で休みようもないぞ。どれ、身体を出せ、俺の背に乗れ、()ぶってやろう」と、背を出されては拒みようも無く、脚の萎えと共に心の不平までも萎えてしまって、弱い子どもがこの強い男に(かな)う訳もないので、黙って言う通りに従っていた。十町余りほど歩いた頃には、日昼なら大層賑やかだろうと思われる人家がギッシリ建ち並んだ町に出た。流石に都の大通りと見えて、夜は更けたけれど、道行く人にもちらほら出会い、街を照らす軒の燈火(あかり)も幾つか見えた。

 こんなに人の多いところで仕事が出来るのかと、背中から下ろされて、榮太郎は疑ったが、十郎は例のように無言になって、榮太郎を後ろに(したが)え、たちまち曲がり、たちまち折れて、裏の通りに出たかと思うと、前後を見廻して、一つの板塀を難なく(おど)り越え、内側から小さな木戸を開き、家と家の間の細い路地を通り抜け、その突き当たりの木戸も開けば、そこは表通りと見えて、何となく陽気な感じがした。


 こうやって前後の木戸を()じ開けて、又閉じてあるように(よそお)った十郎は、今度は母屋(おもや)と離れて、裏通りの方近くに建っている一つの蔵に立ち寄ったが、どんな術を使ったのか、施錠してあった蔵の網戸の錠は(はず)れていた。土戸(つちど)(*土や漆喰を塗った引き戸)は最初から開いている。直ぐに入るかと思うと、意外にも、

「これ、榮太郎、この蔵は目的(めあて)ではないただの雑穀蔵。今開けてやるが、お前は中に入って、これを五、六本(とも)して所々に立てておけ。そして、しばらく立ち塞がって光を隠しておくのだ。それから俺がこっち向きの雨戸一枚、引っ剥がして内に入ったと見たら、燭光(あかり)を内へ射し入るようにお前は入口を飛び退いて、母屋の外側の雨戸か何かにお前の姿を隠しながら、ごとごと衝突(あた)って音を立てろ。隣家に知られるような大きな音にはするなよ。家の奴等は決して外へは出ないから怖れるな。この家の主人は油断の無い人間(やつ)だ。一筋縄では行かないので、一ト仕掛け食わせて脅迫(おど)して()ってやるのだ。さあ、これを持って俺の言う通りにしてくれ、愚図愚図するな。仕事となれば慈悲などない。ええ、渋るな、置き去りにするぞ」と言われて、手を出せば、渡されたのは百眼(ひゃくめ)蝋燭(ろうそく)(*一本の重さが約百(ひゃく)(もんめ)もある大きな蠟燭)五、六本、マッチ一箱、それに例の羽織の三品である。

 いよいよ怖れ震えながら、『仕事となれば慈悲はない』の一言に恨めしさも増すが、抵抗(あらが)い難く、音もさせずに引き開けられた蔵に入って、蝋燭を何本か(とも)し、戸口に出て光を(おお)えば、その間に雨戸の尻に何かをして、無造作に一枚放ち捨てた十郎、つかつかと内に進み入った。

 今が大事。家の人達に声を立てられたら自分もあの男と一緒に捕まってしまうと、胸に早鐘をつきながら、土蔵の入口を飛び退き、十郎が入った口の傍の戸に身を打ち寄せながら、逃げる用意にと、自分の下駄も脱いで腰につけ、生きた心地もせずにいた。


 それに引き替え、十郎は悠然と下駄のまま入って、たちまち戸の近くで眠っていた男を()()こし、引っ(くく)って柱に繋ぎ、その傍にいた小僧二人も難なく同じように括った。家内の人が眼を醒ませば絶対叫ぶぞ、叫ぶぞ、と榮太郎が思っていたのとは違って、余りにも訳もなく静かなので、榮太郎の怖れも少し(やわ)らいだ。

 雨戸にことこと触れながら、内の様子を伺えば、蔵から射し入る光によって、十郎の口に咥えられた匕首(あいくち)が鋭い光を放って、恐ろしいくらいに輝いており、今まさに五十くらいの下女と思われる女が青い顔をして縛られつつあった。

 目前に見るこの光景に榮太郎は胸が痛くなりながら、なおも伺っていると、障子襖を引き明け、引き明け、なおも奥に進み入った十郎は、主人の寝間と思われるところに入って、女房らしい女をたちまち縛り上げた。

 この物音に目覚めたか、勃然(むっく)と起きたこの家の主人、(きっ)と、こちらを見た顔は、()が遠いのではっきりとはしないが、眼が丸く、顎が張り出して、鬼の仲間のような人相だったので、榮太郎はギョッと驚いたが、ただぼそぼそとしか聞こえないので十郎が何と言ったのか分からないが、その主人も低頭平身しているのが見えた。


つづく

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