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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(33)

 其 三十三


 憂愁(うれい)と悲しみと驚きに()まれ、()えられ、榮太郎は今やまったく自分の身を自分の意思で動かす力も()くし、木作りの偶像(にんぎょう)のようになって、ただ十郎の言う間言う間に『はい、はい』と従うだけとなってしまった。どうしようも無いとは言うものの、それは憐れな姿であった。

 昨夜から頼んでいたので、朝餉(あさげ)も早く出て、鎌九郎の十郎は榮太郎と共に膳に向かってこれを済ませ、「さあ」と、連れだって宿を出たが、朝風が(たもと)に寒く、(そら)もまだまったく明け切っておらず、道行く人など一人も居ない。

 十郎は少しも榮太郎に言葉も掛けず、街道を左に折れて小径(こみち)に入り、得体の知れない路を無理に行けば、行き悩んでいたけれど榮太郎もこれに遅れまいと従い行く。二時間程経つと、又一つの結構大きな道に出た。

 ここはどこなのか分からないけれども、人家も(なら)んでいて、(あさ)(あきな)いの掃き清められた店先に紺の暖簾(のれん)が風に(あお)られている家も少なからずある。

「これ、榮太郎、俺は後からゆっくり行くから、お前は先に歩いて行って、風呂敷一つとお前と俺の足袋(たび)と下駄を適当に見繕(みつくろ)って買ってこい」と、紙幣(さつ)を渡された。どういうことなのか分からなかったが、駆け抜けるように三町ばかり先まで行って、言われた品々を買い調(ととの)えた。


「よし、なかなか敏捷(はしっこ)い。よく買って来た。今度は少し難しいが、しっかりやれよ。用はこれっきりだ。(たけ)が八寸より大きい男の綿入れ上下二枚と、それに釣り合う羽織一枚、博多かなんかの男帯、これだけをお前が買ってくるのだ。ナニ、訳はない、何でも良いのだ。三十両ある。これを持って行け。『気に入らなかったら返しに来ます。岩槻(いわつき)に居る者ですが、毎日ここを通りますので、もしも不都合だったら、明日言いに聞きます。品物は何でもいいのですが、役人になって、急に他所(よそ)に出る人の支度で、子どもの私が頼まれたので、なるべく一度で済むように体裁のいいのを見て下さい』と、こう言えば問題ない。先方(さき)で見立ててくれるだろうから、最初に金を出してしまって寄越される物をその風呂敷に包んでくればそれでいいのだ。お前の腰の(から)風呂敷(ぶろしき)にその下駄二つは包んで背負(せお)え。いいか、この次の宿(しゅく)の古着屋の大きそうな店で買うのだぞ」と、家並みの(はず)れた人気(ひとけ)の無いところで金銭(かね)を渡された。面倒とは思うが言い付けられたことに抵抗(あらがう)ことなどできもせず、これにも従って、次の宿で言われた品々を買い調えれば、

「おう、よくやった。出来(でか)した。感心、感心」と、(しき)りに褒めて、宿外れの小さな辻堂の内に入り、榮太郎に見張りをさせて、自分は衣服(なり)を改め、駒下駄を()いて出て来た十郎、見れば別人のようであった。黒の羽織に光る衣服(きもの)。今までの職人のいでたちとは打って変わった立派さに、榮太郎はただ呆れるばかり。やがて元の股引と半纏(はんてん)は賽銭箱に(ねじ)()れて、

「どうだ、榮太郎、どんな風に見える。ハハハ、お前にも今にいい衣服(なり)をさせるぞ」と、笑いながら、十郎は悠々と先に歩いていった。


 王子(おうじ)というところにやって来ると、帽子と蝙蝠(こうもり)(がさ)はそこで十郎が自分で買い求め、車を雇って下谷に着き、とある旅店に入ると、横柄な態度で店の中をずっと通って、一室で疲れを休めた。

「お泊まりでしょうか」と問われれば、

「いや、二、三件用事を済ませて、最終の汽車で横浜へ行く」と言い、

「横浜のご定宿(じょうやど)は?」と訊かれると、

「今までの定宿は、対応が悪かったので、いい宿を教えろ」と言い、宿帳(やどちょう)付けが来れば、

仙台(せんだい)国分町(こくぶちょう) 士族(しぞく) (わく)()(はる)(あきら)下僕(げぼく)一人』と威張り返って(しる)し、

三之(さんの)(すけ)、貴様は疲れているだろうから湯にでも入ってゆっくりと休め。俺は所用を済ませてくる。オイ、車を一挺(いっちょう)根津(ねづ)須賀町(すがちょう)まで頼んでくれ」と、何かにつけて尊大な態度で、今までとはまるで変わった調子である。

 榮太郎はただ(けむ)に巻かれて、言われるままに居れば、悪魔の大将だと心で怖れていた男は行ってしまって形も影も無くなった。根津というところへ行って何をするのだろう、と考えたりしていたが、それにつけても、自分が留守をしている母様はきっと首を長くして待っておられるだろうと思うと、居ても立ってもいられない心地がした。しかし、逃れようにも、又逃れる(すべ)も無いこの身は(ひる)の多い深田(ふかた)の中に落ちたような思いがして、どうしようもない程に苦悩したが、疲れに疲れ切った身体(からだ)は、知らない内に何時(いつ)しか眠りに落ちていた。


 隣の座敷の人声に驚き眼を()ませば、短い日は早くも暮れかかり、この日この夕べは都も淋しく、無心の鐘の音さえも悲しさが伴っているようであった。何故(なぜ)かあの十郎は帰って来ず、好きな人とは言えないけれども、このままあの男が帰ってこなければと、取り越し苦労をするにつれ、流石に不安になって、市街(まち)に沿った表二階の欄干に寄りかかり、ただ一人、燈明(あかり)がちらちら見え始めた大路の人の往き来を眺める榮太郎であった。


つづく

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