幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(32)
其 三十二
提灯を突きつけて榮太郎の顔を見た一人の巡査は、言葉もそれほど角は立てずに、
「お前の姓名は何と言う。同伴の男は何者だ」と問うと、ここが大事なところだと、
「ハイ、私は浦和鹿手袋村の者で、榮太郎と申しまして、旧暦で十四になります。親父は畳職人で田中鎌九郎と申します。頼まれて千住へ仕事に行っていたのを呼んだのですが、帰る路で遅くなりましたので泊まりました」と、一生懸命になって言えば、巡査は一々頷きながら後ろを振り返って、もう一人の巡査と耳打ちをし、その場を去ろうとしたが、もう一人の巡査が踏み止まって、寝ている鎌九郎の夜着を引き捲くって、顔に提灯を近づけた。今しも照らし出されるこの男が、今まで自ら威張っていた盗賊の悪行が暴かれて、大事になるのではと榮太郎は密かに心を痛めていたが、男はなおも目覚めない振りをして、まったく寝惚けたように「ウウーッ」と、寝言のように唸り、両手を伸ばして身も締まりなく、だらけきった酔後の熟睡振り。顔も柿のように赤く、どんなことにもまったく関わりはないという風で、不審な点があるような者とは思えなかった。しかし、職務に忠実な巡査はしばらく考えて、呼び起こそうとしようとしたが、その時、
「いえ、もうこの方は、ただ今子ども衆がお答えなさいました通りの畳職で、鎌九郎殿、疑わしい方ではございません。宿でも古いお馴染み様、御酒を召し上がって、この通りお酔いなされておられるので、急には起きもなされますまい」と、横合いから亭主が何も知らないまま差し出てそう言ったのは、宵の間に心付けをしておいた茶代に対しての義理。折角気持ちよく寝込んでいるのを起こしてはと、思うばかりの心遣いであった。
亭主にそう証言されて、起こすのは気の毒と思わないでもなかった巡査は、思い返したのだろう、
「それなら又他の座敷へ案内しろ」と言いながら室の外へと立ち去っていった。
一ト息ついた榮太郎はようやく危機を脱したと思いながら男の方を顧みると、なおもそのまま鼾は元のように大きくかいている。まさか寝込んではいないとは思うが、いや、もしかして本当に寝入っているのかも知れないと疑い惑うばかりであった。
やがて家内は又ひっそりとして、やって来た者は去り、目覚めた者は再び寝たと思われる頃、遠慮気もなく笑い声を高く洩らして、男は、
「馬鹿め、この俺とも知らずに、ハハハハ」と嘲笑い、
「いや、榮太郎、上出来上出来、これくらのことはきっと出来るだろうと最初から俺は見て取っていたが、なかなか行く末頼もしい。テメエはきっと大物になるぞ。どうしてなかなか今の挨拶振りは教えたって、鈍痴には出来ることではない。少し声に震えはあったが、二、三度もこんなことを重ねれば立派なものになって来るわ。さあ、こうなれば何もかも打ち明けてしまうから、安心して俺の言うことに従うが好い。決してテメエが不利になることは無い。鎌九郎とは口から出任せで、俺の本名も言って聞かそう。何を隠そう、この俺は元松前の二本差し、元服前からやんちゃの挙げ句、城下に尻を向けて離れ、歌によく言う忍路高島(*民謡の「江差追分」に歌われている、忍路と高島は北海道小樽近郊にある地名)、それから増毛(*北海道増毛郡増毛町)、鬼鹿(*北海道留萌郡にあった村)と、磁石のように北へ向いて、宗谷の岬から樺太地、到る所で癇癪に障ったが最後、腹立ちの虫を抑えるために随分人も殺めた。その末には、山丹人(*アイヌ民族と交易をしていた中国に住む民族だと言われている)めが積み込んできた舟一艘に積んである錦やら、虫の巣玉やら、種々の財宝を奪って、旅費を作り、この世に不満を持つ荒武者どもを従えて、春の彼岸の白日和(*明るい日のことか)に三板舟(*小型の船)を掠め取って大陸に渡ってからは、満州地、吉林城まで押し込んで、乗るか反るかの荒仕事。面白い夢もかなり見た。その時俺は二十一。最後には酷い目に遭い、手下八人は火刑となって杭の上で霜と消えたが、俺は露西亜の地へ逃げて、兀露尹という可笑しい奴の許に匿われて死にもせず、段々と奇妙な運を掴んで、話せば長い栄華と困苦のだんだら筋の夢を見た末、今でも日本はおろか、股にかけている何千里の土地のどこにもまだ家も無く、籍も無い、天下御免の我が儘者。一寸したことの間違いから不味いことをして立ち去る途中、実はテメエを借り物にして、下らないただの盗賊で捕られないために親子に化けて、首尾よく奴等を嵌めてやったということよ。ハハハハ、まだ今日一日はテメエを頼る積もりだが、その代わりに、これ、榮太郎、姉も取り返してやる。母も救ってやる。テメエに金もくれてやる。いいか、俺の名は、必要があってテメエにだけは教えておく。よく覚えておけ。ただテメエが覚えていればそれでいいのだ。どんな目に遭ったとしても絶対他人には言うな。蠣﨑十郎宗連と、士族臭いのも可笑しいが、これが本当の俺の名だ。サア、もう鶏の声が聞こえる。眠いだろうが途中で寝かせてやる。ここに長くいては危ないのだ。サア出かけるぞ。支度をしろ」
つづく




