幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(31)
其 三十一
榮太郎の悲しい身の上話を逐一聞いたその男は、聞き終わると同時に急に怒ったように、今までの調子とは打って変わった声の、沈んだ力強い重々しい語気で、
「よし、解った。もういい、泣くな榮太郎、俺がテメエの孝行心に一ト力出してやることに決めた。安心せい。テメエの苦労も今夜限りだ。テメエの辛苦はこれから皆俺の肩で受けてやる。憎い奴らも退治してやる。テメエやテメエの母はあんまり正直過ぎるので、他人の話を吟味もせずに真に受けて、しなくてもいい心配までしているのだ。それにつけ込んで、女一人、子ども一人のテメエ等親子を食い物にする卑劣な奴等は何とも言いようのない、鼻くそ悪徒。いいわ。俺様が踏み倒してやる。第一勇造とか言う奴に八反の土地を抵当にしてテメエの親父が金を借りたというそのこと自体が嘘の話だ。そいつの捏造事だ。話の皮を引剥いで反対に泥を吐かせた上、謝罪状と若干かの和解金を取るくらいは簡単なことだ。俺の言うことに間違いはない。それから扇面亭とか、又平九郎とか辨次郎とか言う奴等も確かに臭いのする奴等だ。心配するな。テメエの姉のお須磨というのもそいつ等の手の中にあるのに違いはないわ。逃げたというのは捏造事だ。あくまでお須磨を食おうというので、一旦当人を隠して、死んだということにして、籍を消してしまおうと企んでいるのだ。いけ太々しい畜生めらが。こいつ等の油も一ト搾り絞めて、金と一緒に奪ってくれるわ。ハハハ、可哀想に西も東も碌でもない奴等ばかりに取り付かれて、テメエの母の清潔な心や、テメエの小さな胸の中に無益な波風を立てていたものよ。ああ、世も恨むな、他人も恨むな。世間は神代の時代から今の今まで、又、末の世まで大抵こんなものだろうぜ。弱ければ何時も強い者に苛められるのが当たり前の理屈のようになっている。正直な者は曲がったことが出来ないだけに、半分の弱みがあって、反対に曲がった奴は何でもする。だから、それだけ強いというもので、ともすれば悪徒が幅をきかすのはどうしようもないわ。しかしな、いいか、悪徒は悪徒なりに、又それを責める責め方が無いでもないから、気を腐らせることもない。吃驚するなよ、この俺はな、世間を残らず敵にして、自分の生命を玩具物にしている我が儘者の大将だ。腹が立てば人も殺す。涙が湧けば虫も助ける。地位のある奴は親の仇で、財を誇る奴は俺の子の仇。政府の役人は肌の虱だ。テメエに聞かせても解るまいが、卑劣漢のために都合よく組立っているこの世界はぶち壊しても問題ないわ。たかが俺様が負けたところで、俺の生命以上のものを世間に奪られる気遣いはない。好きなことをして遊ばないのは損、癪に障る世の中に未練は無いから、何時でも頼み次第でこの世間に暇をくれてやるだけのことよ。どうだ榮太郎、好い暮らしだろう。ハハハ、吃驚するなよ、先刻テメエが見て疑った彼品は何だと思う? ハハハ、教えてやろうか、驚くなよ。彼品は世間の卑劣漢がこれで大丈夫と頼みにする錠前という卑劣なものを、気の毒だけれど、何の苦も無く降参させて、俺の言うことをきかせるものだ。ハハハ、そんなに怯えることは無いわ。ナニ? それならお前は盗賊かだと? ハハハ、まあそうよ。大抵そんな名のつくものさ。これ、何故そんなに堅くなって震える。気の小さい奴だ。テメエも俺の宗旨の中にたった今入ったじゃねえか。ナニ? 盗賊はもうしないと? ハハハ、それもよかろう。もっともだ。しかしな、テメエはもう盗賊だよ。次第によれば、今夜の中に俺は言わないがテメエが捕まる。暗いところで臭い飯。下らない奴等に抱き寝されて、とんでもない目に遭わされる。母は助けられず、姉には会えない悲しいことになるだろう。ハテサ、俺が何で肌虱の役人なんかにテメエのことを訴えなどするものか。だがなあ、今夜万一すると肌虱めがおいでになるぞ。ムム、もう大抵来る頃だ。オオ、噂をすれば影がさすだ。あれを聞け、門口が開いたようだ。あれは確かにそうらしいぞ。出ろ、テメエの夜具にくるまっていろ、好いか、親子だぞ。親子だぞ。しっかりしないとテメエが捕られる。俺は寝込むぞ。テメエが返事をしろ、それっ、と言いざま榮太郎を夜具の外に突き出して、掻い巻きを引っ被り、雷のような鼾を轟かせた。
驚き呆れた榮太郎は、動転しながらも言われた通り自分の床の中に入ったが、それと同時に二人三人の足音がし、襖をさらりと開ける響きがして、
「もし、お客様」と、亭主の声がする。横の男はなおも鼾を続ける。再び呼ばれて、仕方なく榮太郎は目覚めた振りを装いながら、微かに答えて起き上がり、眼を見開けば、警察の提灯先に巡査二人、鉄挑燈を手にした宿の手代、そして迷惑顔をした宿の主人と、合わせて合計四人の男が榮太郎の枕元に立ち列んでいた。
つづく




