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幸田露伴「あがりがま」現代語勝手訳(13)

 其 十三


 普段はこんなことはまったくなかったのに、どうして何も言わず母上は出て行かれたのか。急用が出来てか、人に連れられてか。しかし、別に急を要することなどある筈もなく、母上を連れて行く人がいるとも思えず、何もかもそのままにして出て行かれるところを見れば、かねてから予定していたことではないのだろう、などと、色んなことを想像しては悩み、子ども心にも覚束ない考えを様々に巡らせるけれど、少しもそれらしいことも思い当たらず、ただ空しく立ったり坐ったりするだけで、なす術もなかった。

 所詮、待っていてもしょうがない。五兵衛殿や権兵衛殿に話して、どうすればいいか相談してみようかと、眼は(うれ)いの涙で暗くなりながらも、草履(ぞうり)をつっかけて走り出そうとする時、外から()()()()と人が駈けて来る足音がして、転がり込むように入ってくる者がいた。もしかしてと、早くも見て、

「おお、(かか)(さま)か、心配しておりました」と、迎えれば、向こうからも、

「ああ、榮太郎か」と、言いながら、息も苦しげに(かまち)に腰を掛け、胸をさすってほっとした様子。見れば髪さえひどく乱れて、顔面(おもて)の色は青ざめ、(まなこ)の光は平常(つね)とは違い、地面を素足で()むことを何よりも気持ち悪がっていた人が、(はぎ)(あら)わにして裸足なので、これは絶対何か訳があるのだろうと、又一ト心配。洗足(そそぎ)の水を汲む間にも何事が起こったのかと心を騒がせる。


 時間が経ち、()に火も(おこ)り、茶も湧いたので、榮太郎は夜食をこしらえる。いつもなら母も手を貸して下さるのだけれど、今夜はものも言われず、悄然(しおしお)として坐ったまま、身動きもされない。よくよく苦労に気を()られておられるのだろうと、全部一人でやってのけ、やがて膳を調(ととの)えようとするが、

「私は物も欲しくはないから、お前は先に食べておくれ」と、さも(ものう)げにただ一言。

「お腹でも痛むのでしょうか、ご気分がお悪いのでしょうか」と、訊くが、答えずに(こうべ)を振るだけである。


 どうしようもなく、榮太郎は夜食を終え、後片付けも手早く済ませて、母の機嫌を伺うと、首をうなだれ、両手を膝に重ねたまま、眼さえ閉じて、死んでいるように静かに坐っている。さっきから、今にでも口を開いて何とか胸の中を語られるか、今の状況はこれこれこうだと教えてくれるかと待っているが、前方の村の鐘の音がごーん、ごーんと小さく響いて、夜はいたずらに更けて行くだけで、遂に何の言葉も発しない母の心中は推し量ることも出来ない。どうすればいいのかと気持ちはジリジリするが、五月蠅(うるさ)くすれば、何によらず、眉を(ひそ)めて厭がられる癖を知っているので、二度、三度問えば必ず(いつも)のように厭がられるだけだと、親を思う一心で、居眠りもせず、同じように静かに坐っていた。

 この淋しい雰囲気にさらに哀れさを誘うように、我が物顔の鼠が憎らしくも物を囓る音をさせ、やがて壁の隅の穴からちょろりと出て、人の前を(つつ)と走って行く音がすると、矢よりも早く、

「畜生ッ!」と、鋭い叫びの一声(ひとこえ)が母の口から発せられた。愕然として、母に似つかわしくない言葉だと、その(おもて)を仰ぎ見ると、涙はそれを引き留めるものさえなく、珠となって散り、唇をきつく咬みしめ、眼差し凄く、(あて)のないところを睨んでおられるその風情、これはただ事では無いと思われて、榮太郎は慄然(ぞっ)と身の毛が立った。


つづく

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