2「夕凪空」
朝の教室には、私のための音がない。
肩を叩いて笑う音も、ペンを走らせる音も。誰かの足音も私には関係ない。
おはよう、の声はあちこちで飛び交っているのに、どれも私の上を素通りしていく。
慣れてる。ほんとに慣れてる。
……慣れてるってことに、してる。
席について、ノートと教科書を出して、それから少しだけ迷って、スマホを机の下に隠してこっそり覗く。
実は見るのは、今日もう10回目。
【再生数:87】
初めてそらが作ってくれた、15秒のショート動画。私がコメントに笑ってる、ただそれだけの動画。
はちじゅうなな。
……クラスより、多い。
1クラスだいたい35人だから、2クラスで70人。つまりこの教室まるごと2個分より多くの人が、私を見て、たぶんちょっとは「ふうん」って思ってくれた。
すごくない? ……すごいよね? うん、すごい。
そらは『まだまだ改善の余地ありか……』なんて言ってたけど、私にとっては大事件だ。だって私、教室1個分の人にすら、ずっと見つけてもらえなかったんだから。
「ねえ、それってさ——」
近くの席の話し声に、肩が跳ねた。……私じゃなかった。あたりまえだ。この教室で、私に話しかける人は誰もいない。
小学校のときは何もしていないのに「調子乗ってる」って言われた。中学のときは、知らない私の噂が、私より先に教室を歩いていた。高校では、もう何も言われない。
何も言われないのは、楽で、しずかで、……ちょっとだけさみしい。
うん。
だから慣れてるんだってば。今日も平常運転だ。スマホをしまって、私はごそごそと1時間目の準備をはじめた。
2時間目のあとの休み時間。私は言い訳をいくつか用意して、隣のクラスに向かった。
言い訳その1、借りてたノートを返す。その2、今夜の配信の開始時間の確認。その3……えっと、顔が見たかった。最後のは、ただの本音だった。
隣のクラスの後ろの戸からそっとのぞくと、すぐに見つかった。窓際の席で、女の子3人に囲まれてる黒髪の子。
夕凪空。私の隣の家に住んでる幼馴染の女の子。生まれたときからずっと一緒。
座って囲まれてるのに、場の主導権を握っているのが分かる。誰の話でもちゃんと聞いて、ちゃんとアドバイスして、でも誰にも寄りかからせない。完璧な距離。——よそいきの空だ。あの輪の中の「夕凪さん」は、礼儀正しくて、上品で、隙がなくて、ちょっとだけ遠い。
私の知ってるそらは、もうちょっとひどい。徹夜明けはゾンビだし、ゲームでは大人げないし、私の毛布を容赦なく剥いで床に転がす。
……そのひどい方のそらを知ってるのは、きっと私だけ。
えへへ。
いや、えへへじゃなくて。ノート。ノートを返しに来たんだった。
戸口でもじもじしてたら、そらがこっちに気づいた。気づいた瞬間、「夕凪さん」がちょっとだけゆるむ。あ、と思う間もなく、そらは女の子たちに「ごめん、ちょっと」と綺麗な会釈をして、こっちに向かって歩いてきた。
その背中を、3対の視線が追いかけていたこと。
私はちゃんと、気づいていた。
「どうしたの」
「えっと、その……そうだ! ノート返しに来ました! あと配信の時間と、あと……えっと」
周囲の視線から逃げるように私が出した声は小さくなる。
「うん、配信は19時からだよ。あと、なに?」
「…………そらが元気かなって」
「ふふ、なにそれ。2時間前に一緒に登校したじゃない?」
ぐうの音も出ない。でもそらは「元気だよ」って真顔で答えてくれた。そういうところが、そらの一番ずるいところだと思う。
昼休み。非常階段の踊り場が、私たちの定位置だ。日当たりがよくて、人が来なくて、そら曰く「秘密基地」。お弁当を広げながら配信の打ち合わせをするのが、最近のトレンドになっている。
「はい、これ」
座るなり、そらがいちごオレを差し出してきた。私がいま、いちばんはまってるやつ。先週「最近これ好きなんだよね」って、言ったのを覚えてくれていたらしい。
「……ありがと」
「ん」
こういうの、ぜんぶ覚えてる人なのだ。さらっと。当然みたいな顔をして、菓子パンを咥えている。
「今夜の話題カード、いくつか追加したよ。送っといたから見といてね。あと、昨日の切り抜きなんだけど——」
話しながら、そらがそれまで見ていたスマホをすっと伏せて置いた。画面を下にして、私のほうに体を向ける。
……これ。これなんですよ。
そらは、大事な話をするとき、ぜったいにスマホを見ない。伏せる。たったそれだけのことなのに、「今この時間はあなたとの時間です」って言われてるみたいで、毎回ちょっと、どきっとする。配信の話とか、ほんとは気になってるはずなのに。そらの落ち着いた声が私の耳を通り抜けていく。
「聞いてる?」
「き、聞いてます! えっと、そう、切り抜きの話だよね!」
「そう。で、サムネはこの2つを考えてるんだけど、どっちがいい?」
「えっ、私が決めていいの?」
「もちろん。ルミナのチャンネルだもの」
私のチャンネル。そう言われるとちょっと違和感。ほんとはぜんぶ、そらが作ってるのに。
そらが紙パックのコーヒー牛乳にストローを刺した。剥いた袋をするする結んで、ちいさな結び目にして、脇に置く。ごみが転がらないように。無意識っぽいのが、また綺麗だ。
なんなんだろう、この人。同い年のはずなのに、ときどき、ずっと年上の人と一緒にいるみたいな気持ちになる。
サムネを選びながら、ふと顔を上げたら——そらは、窓の向こうの空を見ていた。
ときどき、そらはこういう目をする。ここじゃないどこか、今じゃないいつかを見てるみたいな遠い目。声をかけると、いつもより1秒だけ遅れて戻ってくる。
「そら?」
「……ん。ごめん、なに? 決まった?」
ほら。1秒。
その1秒のあいだ、そらがどこにいるのか、私は知らない。聞いたこともない。聞いていいのかも、わからない。
放課後。隣のおうち。そらの部屋。19時。
「3、2、1——」
配信がはじまる。
《きたー》
《こんばんは》
《まってた》
同接、6。開始と同時にコメントが3個。
……すごい。今日も来てくれた。昨日も見た名前がある。私のことを、覚えててくれた人がいるんだ。
『こんばんは! 来てくれてありがとうございます! えへへ、今日もはじまりました!』
教室では、私の「おはよう」は誰にも届かない。でも私の「こんばんは」には、宛先があった。
たった6人。クラスの2割もいない。なのに私にとって、教室よりずっと、ここは広い。
ちらっと向こうを見ると、そらが進行表を手に、何かあればいつでも動ける姿勢で座ってる。カメラに映らない場所。私からだけ見える場所。
いちばん最初に私を見つけてくれた人は、コメント欄じゃなくて、そこにいる。
――みんなには、内緒だけどね。
こないだぽろっと言ったら、そらにめちゃくちゃ怒られちゃったから。




