16「誰だって泣きたい時がある」
「――そら」
すぐ目の前で、ルミナが私を呼んだ。
顔を上げられなかった。この期に及んで、何を言われるのか、こわかった。
気持ち悪い、と。もう無理、と。そう言われて終わるのが。
でも、ルミナの声は、いつもと変わらなかった。
「そっか」
たった、それだけだった。
責めるでも、泣くでもなく。長い長い話をぜんぶ聞き終えて、ルミナはただ、そう言った。
拍子抜けするくらい静かなその声が、かえってこわかった。きっと、まだ整理がついていないだけだ。少し経てばわかる。こんな相手と、これ以上隣になんていられないって。
だから、私のほうから終わらせなきゃ。ルミナが傷つく前に。これ以上、巻き込む前に。
「……気持ち悪いよね」
やっと出た声は、掠れて、情けなかった。
「ずっと騙してたんだもん。中身、こんなので。……ごめん。今まで、ありがとう。もう、いいよ。私のことは忘れて。さよ――」
「勝手に決めないで」
言い終わる前に、遮られた。
ルミナの声が部屋に、凛、と響く。
「そらってさ。ほんと、そういうとこ。いっつも、そう。勝手だよ」
顔を上げると、ルミナは怒っていた。泣きそうな顔で、怒っていた。
「ぜんぶ自分で抱えて。ぜんぶ自分で決めて。私の気持ちは聞きもしないで。気持ち悪い? さよなら? ……それ、私が決めることでしょ。なんで、そらが決めるの」
言葉に詰まった。
「じゃあ聞くけど、そらが私に言ってくれた言葉は、全部うそだったの?」
ルミナが、私の目を見て問いかける。
「……そうだよ」
ルミナから目を逸らしたまま、反射でそう答えていた。
「優しくしたのも、守ったのも、隣にいたのも。ぜんぶ――」
「うそ」
ルミナの声は、不思議なくらい落ち着いていた。
「わかるよ、そら。それが嘘だってことくらい」
それからルミナは、ゆっくりと続けた。
「……私ね、ちゃんと覚えてるんだよ」
ルミナは膝をついたまま、まっすぐ私を見ている。
「小学校でいじめられたとき、間に入ってくれたのも。変な人に絡まれたとき、かばってくれたのも。私がへこんでるとき、なんでもないふりして隣にいてくれたのも。嫌なコメント、こっそり消してくれてたのも。今回だって。ぜんぶ、全部」
「それは――」
「そらは、悪くない。ひとつも、悪くない」
ルミナの声が、少しだけ揺れた。
「悪いのは、守ってもらわなきゃ立てなかった私のほう。弱くて、自分じゃ何もできなくて、そらの後ろに隠れてた私のほう」
ルミナはそこで、一度だけ息を吸った。
「私、ちゃんと自分の足でも立てるようになりたい。そらの隣にいても、笑われないようになりたい。……そう言いたかったんだ」
声は、少し震えていた。でも、目は逸らさなかった。
「だからね、そら。さよならするのは、私と、私の弱さ。そらと私じゃ、ない」
さよなら。
私が自分に貼りつけようとしたその言葉を、ルミナは、自分の弱さに貼り替えた。
「こんなになるまで」
ルミナの手が伸びてきて、震えていた私の手に重なった。
「こんなにボロボロになるまで。私のために、頑張ってくれて。もっと早く言ってあげられなくて、ごめんなさい。……ありがとう」
その一言が。
私がずっと自分に突きつけていた言葉の、ぜんぶの上から、静かに染みていった。
「それにね、そら」
ルミナは、私の手を両手で包んだ。
「私が好きなのは、そらの顔でも、声でも、才能でもないよ。男だったとか、前世とか……そういうのも」
そこで、言葉が、つかえた。ほんの一瞬。
ああ、やっぱり。
そう思いかけた私に、ルミナは、声を絞り出すように続けた。
「……正直、まだ、ぜんぶは飲み込めてない。びっくりしすぎて、頭、ぐちゃぐちゃで。だけど、そらが言うなら信じるよ」
握られた手に、力がこもる。
「それでも、関係ないって思えるの。だって、今ここにいるのは、そら、なんだから」
ルミナが必死で私を理解しようとしてくれるのが伝わってくる。動揺も当たり前のようにあるだろう。
だけど、ルミナは、私の手を、離さなかった。手を離したらどこか遠くに行ってしまうとでも思っているかのように。
「私はね。そらの、——心が好きなの。一緒にいて、あったかくなる。そんな、そらの心が」
堰が、切れた。私の頬を雫がつたう。
「だからさ」
ルミナは、いちばん大事なことを、最後に置いた。
「一人で抱えて、終わらせて、……そんなの、もう、これからはしなくて大丈夫」
見えないところからずっと守ろう、という、私が最後にすがっていた決意。その逃げ場を、ルミナはまっすぐ撃ち抜いた。
「もう、私を子供扱いしないでいいから。厳しくしても、いいから」
ルミナの声が震えて、それでも、はっきりと。
「隣に、立つから。私、あなたの、隣に、ちゃんと」
こらえられなかった。
ずっと、与える側のつもりだった。守る側で、いなきゃいけないと思っていた。
そんな傲慢な私の手を、いま、ルミナが握っている。私の守ろうとしたルミナが。
気づいたら私は、ルミナの肩に額を押しつけていた。すがるみたいに。子供みたいに。みっともなく声を上げて、泣いていた。
ルミナは、何も言わなかった。ただ私の背中に手を回して、よしよし、と、ゆっくり撫でてくれた。いつも、私がこの子にしてきたみたいに。
——ごめん、私、ルミナより、ずっと年上なのに、ごめん。
震える声で私は謝った。情けなくてたまらない。だけど感情が抑えられなかった。
「おとなでも、泣きたいときくらい、あるよ」
そんな私にルミナが言った。
守る側と、守られる側。
その境界がしょっぱい何かで曖昧になっていく。
どれくらい、そうしていたのか。
ルミナは、いつのまにか、あの紙を手に持っていた。引き出しの奥に隠したはずの、1番の歌詞。
「ねえ、そら」
しわだらけのそれを大事そうに広げて、ルミナは言った。
「これ、私が歌う。声にして、みんなに届ける。……もう、そらを一人にしない」
それは、前世で止まったままの曲。
歌うはずだった人が消えて、私も、その続きを書けないまま終わった。
もう、誰にも届かないはずだった。
そんな曲が今、もう一度、宛先を得ようとしていた。




