15「プライド」
火は、いつのまにか消えかけていた。
私が消したわけじゃない。あれだけ手を動かしても、何ひとつ変わらなかった。
ただ、何日か経つうちに、面白がっていた人たちが飽きただけだ。新しい燃料がなくなれば、火は勝手に痩せていく。配信もしていないし、こちらから発信もしていないのも良かったのかもしれない。内容がリアルのゴシップだけに、それ以上火が付きようもなかったのかも。
助かった、とは思えなかった。
私は、最後まで何もできなかった。
火が消えたのは、私のおかげじゃない。ただ、時間が勝手に流れて消えただけ。
学校にもようやく戻った。しばらく体調不良ということにして休んでいたのを、もう、さすがに引き延ばせなくなって。
やれることも、もう尽きていた。私が何をしようと、しまいと、結果は同じだった。
教室でいつもの顔をして、いつもの私をやった。誰に聞かれても大丈夫、と答えた。
まあ、とにかく。あと少しだけ保てばいい。そうすれば全て元通りになる。
私の数日間が徒労になっただけなら、安いものだ。
その日も、ルミナは学校帰りに部屋へ来た。
鞄を置いて、今日の授業がどうとか、廊下から見えた猫がどうとか話し始める。私は相槌を打ちながら、どこか上の空だった。
「それでね、体育の授業中に――」
そこまで言って、ルミナが言葉を切る。
「……あ」
「ん?」
「ううん」
ルミナは慌てて首を振った。でも、その反応がやけに引っかかった。ルミナが何かを誤魔化すときの仕草。
……嫌な、予感がした。
「……何か、あったの」
少しだけ強く言うと、ルミナは視線を逸らした。
「……ほんと、大したことじゃないの」
その前置きで、大したことじゃなかった試しはない。
「ルミナ」
名前を呼ぶと、観念したように肩をすくめた。
「えっとね。クラスで、ちょっと言われただけ」
その言葉の意味が、遅れて届いた。
言われた。何を。
「……何を、言われたの」
「ん? んー、配信のキャラ作ってるとか、そういうの。あ、直接言われたわけじゃないよ? ただ、聞こえちゃうだけ。私の耳が良いからかな?」
少しおどけるような口調で、ルミナが言った。
無理やり笑い話にしようとしているのが、分かった。
「……いつ、から?」
「……ちょっと前くらいからかな。あ、でも全然大丈夫、慣れてるし」
そう言ってルミナがからから、と笑う。
だけど、その言葉が、私の中のどこか大事な部分に突き刺さった。
私がネットの火を必死に消して回っていた、その間も。いや――もしかしたら、もっと前から。
私はネットの隅々まで目を凝らしていた。ルミナを守るんだと、画面を睨み続けて。
その間ずっと、いちばん近くにいるこの子の顔を、私は見ていなかった。
毎日、どんな顔で一日を過ごして、どんな事を聞かされてここに来ていたのか。
炎上は私にはどうにもできなかった。
だけど、少なくともルミナの現実は守れていると思っていた。
思っていた、だけ……だった。
私の目は――何も、見えていなかった。
「そら? どうしたの、こわい顔して」
「……ごめん」
声が、掠れた。
「ごめん、ルミナ。私、ぜんぜん気づいてなくて」
「なんで謝るの。そらのせいじゃないよ」
ルミナは笑った。私を気づかうみたいに。
「まあ、私が言われるのは、いいの。容姿のこととか、ぼっちとか、もう慣れちゃったし。ここ最近は言われてなかったけど、久々ーって感じ。……でも」
そこで、笑顔が少しだけ崩れた。
「最近のは、ちょっとだけ」
膝の上で、手が握りしめられていた。
「私が、そらに寄りかかってるだけだって。夕凪さんがいなかったら、私なんて何も残らない、って」
ひとつずつ言葉を置くみたいに。自分で自分を刺すみたいに。
「私ね、ずっと思ってたんだ。ほんとは。私なんかが隣にいて、いいのかなって。そらの足を引っ張ってるんじゃないかって。……だから、それ聞いたとき。あ、やっぱり、って思っちゃった」
「ルミナ――」
「ごめんね」
その一言が、私のいちばん深いところを刺した。
「私のせいで。私が隣にいるから。そらがこんなに無理して。こんな目に遭って。でも、私……」
違う。
声にならなかった。違う、と言わなきゃいけないのに。ルミナのせいじゃない、1回だってあなたのせいだったことなんてない、と。
言おうとして――気づいてしまった。
私だ。
私がこの子を見つけた。配信を勧めて、一番星を目指させた。誰にも見つからず教室の隅で静かにしていれば、この子はこんなふうに晒されることもなかった。
たぶん、それくらいならできた。少なくとも直接ルミナを痛めつけるものからは、守れたはずだ。
だけど私が表に出した。私が、ルミナを自慢したかった。私が、世界にルミナを広めたかった。
火種は、私だ。最初から。
守っているはずだった。そんな自尊心の全部が、この数日で剝がれていく。
剝がれた下から出てきたのは、良かれとやったことで、いちばん大切な相手をいちばん深く傷つけている私だった。
ふ、と。
気づいたら、笑っていた。
可笑しいことなんて、ひとつもないのに。喉の奥から、息だけが漏れるみたいに。からからに乾いた笑いだった。
「そら……?」
ルミナがぎょっとした顔で私を見た。
「……私さ。何でも出来るつもりで。結局、大切なもの、ひとつも守れないんだ」
「そんな……そんな笑い方、しないで。そら、こわいよ。違うよ。わたしが、言いたかったのは……」
ルミナの言葉が耳から入ってこない。
言っても意味のない懺悔が、止まらずにあふれる。
「ごめん。また、ルミナまでいなくなったら、どうしようって。……結局、何も、できないまま」
「……『また』、って? 『まで』って、そら、それ。どういう……」
ルミナの目が、まるくなる。
それを見て、気づいた。
今世の私は、まだ誰も失っていない。なのに、「また」。
幼馴染のこの子なら、その違和感に、気づいてしまう。
しまった、と思った。でも、もう遅かった。こぼれた言葉は、もう拾えない。
ああ。
なんだか、急に力が抜けた。
床に崩れて手をついた。
もう、いいか。
火は消せなくて、ルミナの痛みにも気づかなくて。こうして口まで滑らせて。
取り繕えるものなんて、もう何も残っていなかった。
なら――いっそ、全部。
「……たぶん私ね、どこかで間違えたんだ」
自分が何を言おうとしているか、分かっていた。
こんなこと言ったら、頭がおかしくなったと思われるだろう。到底、信じられない話だ。でも、もうそれも、どうでもよかった。
今の私になる前。私には、別の人生があった。違う名前で、小さな制作会社で働いてた。依頼の通りに曲を作ったり、調整したり、ディレクションしたり。裏方だけど仕事はちゃんと回せてた。それなりに、頼りにもされてた。
でも、自分の名前で出した曲は、ぜんぶ駄目で、誰の耳にも届かなくて。だけど、諦めきれなかったのは、たぶん、私を見つけて欲しかったから。
そんな私の曲を、たった一人だけ好きだと言ってくれた人がいた。名前も顔も知らない、ネット上だけの関係。すごく歌のうまい人なのに、ほとんど人に聴かせようとしない人で。私はその声が、好きだった。だから言ったんだ。もったいない、歌で活動しようよ。そしたら一緒に一曲、作ろうって。
……私が、背中を押した。それから、その人は歌いはじめて、少しずつ伸びて――そして、叩かれた。声を、歌を、見た目を。粘着されて、よその誰かと比べられて、粗を探されて。だんだん更新が減って、言葉に、陰ができていった。
私は気づいていた。気づいていたのに、かける言葉が見つからなかった。画面のこっち側から、その人が悪意に削られていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
ある日、その人はいなくなった。アカウントごと。さよならも、なかった。曲はサビのところで止まった。歌う人が、もういなかったから。
「もし私が、あのとき。歌で活動しようよ、なんて言わなければ。あの人は誰にも見つからないまま、叩かれることもなく……静かに生きていられたのに」
才能は、見つけてくれる一人がいないと、存在しないのと同じ。そう信じて。誰かを見つけて、世界に紹介することを、私は良いことだと思っていた。
でもやっぱり、それは、間違いだったんだ。
そう、学んだはずなのに。
なのに私は、同じことをまた、した。前世のことなんて、すっかり棚に上げて。ルミナの声を、もったいないって思って。見つけて、みんなから見えるようにして。
結局、何年生きたって、同じだ。いちばん失いたくない、あなたで。また、繰り返した。
もしかしたら今回は、って。心のどこかで思っていたのかもしれない。考えたところで意味はない。何の免罪符にもならない。
だから最後に、もうひとつ。
いちばん、言いたくなかったこと。
「私さ、ずっとルミナの隣にいたよね。お風呂も、お泊まりも、ぜーんぶ一緒で」
声が、震えた。
「ごめんね。ルミナの思い出、全部、穢しちゃった。……だって私」
ひとつ、息を吸って。
「前は、男だったんだ」
言ってしまった。ぜんぶ。
誰にも見せないように、ずっとごまかしてきた、その芯まで。
不思議と、何の感情も湧かなかった。
ああ、終わった。
ただ、そう思った。
前世やら、男だったやら。こんなもの明かしてしまったら、もう今までどおりではいられない。この子はきっと私を、得体の知れない何かとして見るだろう。
仕方ない。当然だ。
それでも――と、私はすべてが崩れた頭の隅で決めていた。
嫌われてもいい。離れていってもいい。これっきり、口をきいてくれなくたって。
でも、せめて。この子が知らないところで、見えないところから。私はこれからもずっと、この子を守り続けよう。悪意を遠ざけて、気づかれないように。
そうすれば、それで。私の役目は、果たせる。
崩れきってもなお、私はまだ、与える側の椅子に座っているつもりでいた。それが、ただの卑怯な自己満足だとも気づかないまま。
全てを言い終えた私は、床に座り込んで、視線を落とす。
それから何も言わずに、部屋を出ていく足音を、待った。
……または、ルミナの罵声を、待った。
でも、聞こえてきたのは、そのどちらでもない。
衣擦れの音が、すぐ近くでした。
私の目線の高さまで。ルミナがゆっくりと床に膝をついて、しゃがみ込む。
いつも、背の高い私が、ルミナの目を見るために腰を落としていたみたいに。
今度はルミナが、私の目の高さに、自分を合わせて。
「――そら」
すぐ目の前で。
守り切れなかった女の子の声が、まっすぐに私を呼んだ。




