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第2話



「行ってきます」


 上がり(かまち)に腰を下ろした圭子は、靴と踵の間に指を挿し入れながら言った。気をつけて、僕はそう応じながら壁の時計に目をやる。十八時を少し回ったところだった。


「じゃあ……悪いけれど、またそれで晩ご飯買ってちょうだいね」


 圭子は立ち上がりざまに振り返り、僕の右手にある二つ折りの千円札を指差した。


「うん。母さんもちゃんと食べてよね」


「ありがと。食べなきゃ夜勤なんてやってられないからね」


 微笑んだ圭子の目尻に刻まれる(しわ)。以前よりも克明になっているような気がするそれを指摘はせずに、僕は同じように笑みを返した。

 しかし、ふいに眼前の表情が険しくなる。


「ねえ、(かい)——」


 名前を呼ばれた刹那、僕を取り囲む空気が一気に尖鋭さを(まと)い始めた気がした。良くないことが起こる。頭よりも早く、身体でそれを理解する。

 動揺を気取(けど)られないようにしている僕に、圭子が問う。


「何か、あった?」


 無意識に手に力が入ってしまい、紙の乾いた擦過音が静けさを切り裂いた。


「いや別に……なんだよ急に」


 低くゆっくりとした口調を心がけるが、「嘘よ。笑い方がおかしい」と一蹴されてしまう。


 僕はこれでも、表情のコントロールにはそれなりに自信があった。感情をそのまま顔面に反映させることを人々は「素直」などと定義するが、暴力に酔いしれた者の前で「素直」は嗜虐心を駆り立てる格好の材料になってしまう。だからこそ、どれだけ苦しかろうと悔しかろうと、僕はそれが外に溢れてしまわないように、常に頑丈な蓋をしている。


 今だってそう。唯一の家族である母を心配させたくないから、笑った。笑うふりをした。しかし、一瞬で見破られてしまった。


「……あぁ、そうそう。今日、授業が難しくってさ。ちょっと、わからないところがあったんだよね……それのせいだと思う」


 実に短絡な誤魔化しだ。言った直後から、自分の浅はかさに反吐が出る。


「……本当に?」


 圭子が(いぶか)しげに僕の顔を覗く。

 疲労を溜め込んで、すっかりは気を失った双眸(そうぼう)だというのに、そこから放たれる視線を浴び続けていると、何もかもを見透かされそうな気がして、僕は思わず目を逸らしてしまった。


 そんな息子の姿を見た圭子は、やがて「ふぅ」とも「はぁ」ともつかぬ息を小さく漏らしたかと思うと、僕の頭に手を乗せた。

 何回か優しく叩いてから、髪をまとめてなぞるように左右に手が動かされる。心地よい温もりと荒れた肌の感触が、直接脳内に伝わってくる。


 言葉はない。追及もされない。ただ十数秒、それが続くだけ。

 たったそれだけで、分かってしまう。

 すべて見抜かれているのだと。

 子供の嘘なんて、所詮親には通用しないのだと。


「僕、学校でいじめられてるんだ」


 そう言ってしまえたら、どれだけ楽だろうか。きっと母も、僕の言葉を待っている。

 だけど僕は、喉の奥までせり上がっていたそれを、唾を使ってなんとか押し戻す。しばらくの沈黙の後、圭子は諦めたように手を下ろした。


「無理しないで、何かあったのならちゃんと言ってね……私はずっと、海の味方だから……」


 僕は頷いた。


 扉が開く音。靴が地面を踏む音。扉が閉まる音。鍵が掛けられる音。遠ざかっていく靴の音。部屋の壁と僕の背中が擦れる音。床と尻がぶつかった音。

 膝に顔を埋めて、僕は呟く。


「言えるわけないだろ……」




 そのまま、時間だけが過ぎていった。


 僕は一人になることが好きで、それと同じだけ嫌いでもある。

 いざ誰の目も気にしなくていいとなったら、強張っていた身体と思考が急激に弛緩してしまい、意識外にせき止めていた疲れが、何倍にもなって押し寄せるからだ。今がまさにそれである。


 本当ならこのまま寝てしまいたいくらいだが、先ほどから腹が(うめ)き声を上げているのでそうもいかない。

 いつもならこの時間はコンビニで夕食を買っている。だが、今日は母との駆け引きがあったせいでいつもより神経を摩耗していて、動くのがひどく億劫に感じる。


 目を閉じてしばらく悩んだ末に、僕が出した結論は「風呂に入る」だった。



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― 新着の感想 ―
頷いてから、言えるわけないだろ!が、とてもいいですね。 1話から3話までを株価で例えると、1段下がり、2段目大きく下がり、3段目で何とか堪えているチャートのようです。 それから、郵便受けの鍵の故障は…
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