第3話
粒状の湯を浴びると、垢と一緒に気だるさも流れ落ちた気がした。髪が乾ききらぬうちに、黒のジャージに身を包んで外に出る。空はすでに光を失っていて、ぬるい吐息のような風が僕の身体を撫でては過ぎ去っていく。
少し前まで僕を縛っていた陰鬱きわまりない気分も今はいくぶんか解れていて、歩き慣れていない夜の道が、ちょっとした高揚感すら与えてくる。
その事実に僕はかすかな苦笑いを浮かべて、胸の中央に手を当てる。
心というのは透明で、質量もない。でも、そんな幻想めいたものが皮膚を一枚挟んだ向こう側に必ず存在しているのだと、誰もが信じて疑わない。
心というのは不可解だ。
もしも心が実態を持って胸の中に棲んでいるとしたら、それはミシン糸のようにか細い姿をしているだろう。ただ、ふとした拍子に、しめ縄並みに粗く太くなってしまうこともあるだろう。少なくとも僕が飼っている心は、そういうものである気がした。
そんなことを考えながら、さして意味もなく視線を彷徨わせていると、やがて馴染みの看板を遠くに捉える。長いポールに支えられて聳える蛍光色のロゴは、さながらパレットに鎮座する絵の具みたいに、闇に混ざる素振りも見せず異端な鮮やかさを放つ。
その下を通ってコンビニの自動扉を潜り、わずかに遅れて流れる陽気なメロディを気にも留めず右に折れる。
突き当たりへと向かう途中に、スーツ姿の中年男性がいた。
透けた頭皮から落ちたのであろう、無数の白い粉塵を肩に乗せたまま週刊誌を覗いている。
僕はそれとなく嫌悪感を抱きながらも、黙ってその背後を通り過ぎる——はずだった。
しまった。
そう感じた時には、遅かった。
男性の左手、薬指に嵌められた銀のリングが視界の隅に映り、刹那的に息を呑む。全身を駆け巡る微弱な痺れ。手も足も視線も、動かしているのはすべて自分自身だというのに、そこに僕の意思は一つも存在していないような気がした。
脳に飽和している酸素が徐々に凍りついていく——そんな感覚に陥った時、僕の手にガラス扉の取っ手が触れる。
無機質なその手触りは、現実世界と僕の意識を繋ぎ合わせる介在者のようだった。頭の中に充満していた霧が、だんだんと晴れていく。
そのまま扉を引き、乱れなく整列しているペットボトルの中から、水を一本取り出す。
バタン。
大袈裟な音を立てて閉まる扉に合わせて、僕も一つ息を漏らした。
夫。旦那。妻帯者。
それらの言葉、あるいはそれらの人間に接するたび、僕はあの男を——自分の父親を思い出してしまう。
この世にはもういないその存在を、僕はこれまで何度も記憶から消し去ろうとした。しかし、どれだけ光の当たらない場所にその姿を押しつけても、深く根差した影までは取り除けない。
あの男が残していった悪趣味な置き土産ごと、まるで呪縛のように僕と母の日常に絡みついているのだ。
クシャ、という音が鳴り、手元を見る。強く握りすぎたらしい。ペットボトルの一部がへこんでいた。
「……ちっ」
おにぎり二つと、例の凹んだペットボトルを買って、僕はコンビニを後にした。そのまま来た道を引き返す——という気にはなれず、反対方向に足を動かし始める。
身体の感覚はすでに取り戻しているので、夜道をそぞろ歩こうとしているのは能動によるものだ。
あの男のことを考えると、僕は決まって孤独を欲してしまう。矢継ぎ早に降りかかる負の感情によって、醜く染まっていく自分の姿を、誰にも見咎められない場所を求めてしまう。
そんな都合のいい場所なんて、きっとこの世にはないだろう。
そう、この世には。
「また……来てしまった」
橋の上で立ち止まり、僕はひとりごちた。
夜の本性を宿した欄干が、掌の熱を奪っていく。それが妙に心地よい。
車が交錯するのを時折背中で感じながら、揺れる川面に目を落とす。お世辞にも流れが速いとは言えない川だが、橋の高さはそれなりにある。
世界にしがみつくのは案外疲れる。
生きる理由を見出せないまま生きている人間にとってはなおさらだ。
潮時という二文字が、浮かび上がっては消えていく。その繰り返し。
腐った日々を終わらせてくれるのは、あいつらの変化でも、母の庇護でも、ましてや神の気まぐれでもない。
初めからわかっていた。
自分を救えるのは自分だけなのだと。
強張った身体を、今にも突き動かそうとしている衝動。その正体に気づいてしまった僕を、震えが襲う。しかし、それも長くは続かない。
瞳を強く閉じる。静謐な空気が肺を圧迫し始めた。
いけ。
行け。
逝け。
欄干の上にある手に、めいっぱいの力を込める。
二秒後、僕の身体は闇夜を舞う——はずだった。
「宮野……くん?」




