第1話
鈍い刺激が、絶え間なく全身を苛んでいた。あちこちから溢れてくる気だるさを押し殺しながら、僕はアパートの階段を上っていく。
錆に覆われたその足元から生じる、規則正しい鏗錚の音に煩わしさを感じかけた時、二階の廊下へとたどり着く。雨除けのトタンは少しの風で吹き飛んでしまいそうになっていて、白かったはずの外壁は全体がくすんだ上に、ところどころ煤汚れが目立つ。
住めば都、なんていかにもご都合主義な言葉があるけれど、どれだけ長く住んでもボロ屋はボロ屋。それ以下にも以上にもなることはない。
肌のむくみのように、塗装がめくれ上がった欄干に手を置き、空いた方の手で自分の頬を撫でる。
鏡を探さずとも、触れるだけで分かってしまう。——ひどい顔をしている、と。
表情を少しでも和らげるために、僕はゆっくりと呼吸を繰り返す。
もう少しで空気の味を知れるような気がしながら、階段側から三番目にある扉の前に立つ。
ボールペンで弱々しく書かれた『宮野』という横長の表札。僕はその下にある郵便受けを開いた。
鍵はかかっていない。施錠の仕掛けが壊れているからだ。どんな些末な設備であっても、改修は居住者自らの金と手でやらなければならないのがこのアパートの条件らしく、面倒だから放置している。
不用心ではあるが、壊れてからもう一年ほど経っているのにトラブルは一度も起きていないし、まあいいだろう——などと考えながら郵便物を取り出す。
スーパーの派手なチラシ、駅前にオープンした弁当屋の広告、夜間工事のお知らせ……督促状、という文字が見えたところで、思いがけず舌打ちをしてしまった。次いで漏れるため息。
頭を素早く左右に振りながら、流れるようにドアノブに手を伸ばす。こちらも鍵が開いているのだが、決して壊れているわけではない。
「ただいま」
室内に背を向けながら、ローファーを脱ぐ。すると奥の方からぼそりと語尾を伸ばした「おかえり」が返ってきた。
五畳ほどのダイニングキッチンは二人掛けテーブル、無駄に大きい食器棚とやけに小さいテレビ台、その他にも細々としたものが占領していて、奥の部屋に向かうスペースは、人ひとり通るのがやっとだ。
郵便物をテーブルに——督促状はいちばん下にするべきだと思った——通学鞄を椅子に置いて、僕は声の方に向かった。
もう一つの部屋も同じくらいの広さで、ディスカウントショップで拵えた灰色のソファがある。手をそっと乗せるだけでギシギシと鳴く代物だが、これで案外座り心地が良い。
その上に、宮野圭子は横になっていた。天井を仰ぐ格好で腕を組み、目を瞑っている。
僕が近寄りながらもう一度「ただいま、母さん」と声をかけると、彼女はのそりと瞼を上げて「んー」と応じ、少し間を置いてから起きあがろうとする。
「まだ寝とけば? 仕事まで時間あるだろ」
そう止めたものの、身体をL字にした圭子は無造作に首裏を掻きながら「大丈夫よ、かなり寝たから」と呟いた。ただ、すぐさま豪快なあくびがぶちかまされたので、説得力は微塵もなかった。
*
「美味しかった?」
空になった僕の弁当箱を濯ぎながら、圭子は訊ねてくる。
「え……あぁ、美味しかったよ。っていうか、母さんの料理が不味いわけないじゃん」
僕は平然と嘘をつく。嘘というのはほんのわずかな躊躇いで隙が生まれてしまう。だから変に意識するよりも、まるで息を吐くかのように淀みなく言葉にしてしまう方がいい。
ちなみに嘘というのは味の話ではない。圭子が料理は実際、何を食べても文句のつけどころがないのだから。
「ほんとは夜も作ってあげたいんだけど……ごめんね」
言いながら肩をすくめるその姿を後ろから眺めていると、こちらが申し訳なさでいっぱいになってしまう。
——謝らなきゃいけないのは、僕の方だよ。
そう口にしかけて、寸前のところで飲み込んだ。代わりに拳を握る。爪が肉に食い込むほど、強く。
僕はそのお弁当を食べていない。なのに食べたと嘘をついた。美味しかったと嘘をついた。湧き上がる罪悪感はやがて不揃いな動悸をもたらし、脳内に光景を蘇らせる。
昼休みの教室で、いつものように僕は弁当を食べるはずだった。しかし、包んでいた風呂敷を外した瞬間に、あの三人組が近づいてきた。
あっ、と声を上げるより早く、一人が弁当箱を掴み、そのまま教室の隅へと向かっていく。残る二人が、立ち上がろうとする僕の肩を押さえつけてくるせいで、僕は母の手料理がゴミ箱に貪り尽くされる始終を、黙って眺めていることしかできない。
肩を何度も、激しく上下に揺らす。そのたびに置かれている手の重さが増し、耳に粘りつくような笑い声も大きくなっていった。
やがて僕の机に、弁当箱が粗雑な音を立てて返されたが、残骸は縁にこびりついた若干の米粒だけだった。
——くそったれ。
これまでの暴力の中では感じたことのない、どす黒い何かが、皮膚を突いて滲みだす血のように、僕の胸を少しずつ染めていく。
思いのままに殴ってやりたい。こいつらに許される暴力があるなら、僕にだって許される暴力があるはずだ。そんな考えが、呪詛のように幾度も頭の中を駆け巡っていた。
僕はその時初めて、復讐の衝動に駆られていた。だというのに、それを行動には移せなかった。いつものように去っていく三人の背中を、いつものように俯きがちに睨むことしかできなかったのだ。
暴力を暴力で返すという思考に嫌気がさした。物語の主人公なら、そんなことを言うかもしれない。でも僕は違う。
ただ怖かった。返り討ちに遭った挙句、今よりも酷い状況に陥る未来を怯えて、動けなかっただけだ。
どっちが本当のくそったれか、分かったもんじゃないな。




