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第10話 鍵の意味

第10話 鍵の意味


 朝の光が、静かに台所へ差し込んでいた。


 障子越しの柔らかな陽射しが、磨かれた食器棚を淡く照らしている。湯気の立つ味噌汁からは、出汁の優しい香りが漂っていた。


 静子は小さな土鍋の蓋を開ける。


 炊きたてのご飯の白い湯気がふわりと顔にかかった。


「……いい匂い」


 思わず小さく笑う。


 一人になってから、静子は少しずつ生活を変えていた。


 大きすぎる皿は処分した。


 和也が好んでいた脂っこい料理も作らなくなった。


 代わりに、自分の好きな物を選ぶようになった。


 薄い藍色の茶碗。


 手に馴染む湯呑み。


 小さな花柄の箸置き。


 昔、店先で見かけて「可愛い」と思ったのに、和也に


『そんな無駄なもん買うな』


 と言われて諦めたものばかりだった。


 静子は焼き鮭を皿へ乗せながら、静かな台所を見回した。


 冷蔵庫の低い音。


 窓の外で鳴く鳥。


 風に揺れる庭木。


 それだけしか聞こえない。


 なのに、不思議なくらい満たされていた。


 朝食を終えたあと、静子は庭へ出た。


 六月の風は柔らかく、紫陽花が青く色づいている。土は昨夜の雨をまだ少し含んでいて、草の匂いが鼻をくすぐった。


 静子はじょうろで花に水をやる。


 ぽたぽたと落ちる水滴が朝日に光った。


「静子さん」


 門の向こうから声がした。


 近所の佐伯だった。


「あら、おはようございます」


「朝から庭仕事?」


「少しだけ」


 佐伯は門越しに静子を見つめ、それからふっと笑った。


「最近、表情が明るくなりましたね」


 静子は少し驚いた。


「そうですか?」


「うん。なんていうか……肩の力が抜けた感じ」


 静子はじょうろを置き、空を見上げた。


 薄い雲の向こうに、青空が広がっている。


「ええ」


 静子は静かに微笑んだ。


「鍵を替えたので」


 佐伯は一瞬きょとんとしたあと、小さく吹き出した。


「何それ」


「そのままの意味ですよ」


 笑いながら答える。


 けれど本当だった。


 鍵を替えたあの日から、少しずつ空気が変わった。


 家の空気も。


 自分の呼吸も。


 夜になると、静子は好きな音楽を小さく流すようになった。


 昔のジャズ。


 和也は嫌がっていた。


『暗い曲だな』


 そう言ってすぐテレビに変えてしまっていた。


 今は誰も文句を言わない。


 ソファに座り、静子はゆっくり本を読む。


 眠くなったらそのまま寝る。


 夜中に酔っ払いを待つ必要もない。


 時計を見る必要もない。


 怒鳴り声に身構える必要もない。


 ただ静かな時間が流れていく。


 ある日、押し入れを整理していると、古いアルバムが出てきた。


 若い頃の写真。


 和也と並んで笑っている。


 まだ髪も黒く、未来を信じていた頃。


 静子はしばらくその写真を見つめていた。


「……馬鹿だったわね」


 でも不思議と涙は出なかった。


 怒りもなかった。


 ただ遠い昔を見るような気持ちだった。


 あの頃の自分は、必死だった。


 愛されようとして。


 良い妻になろうとして。


 嫌われないようにして。


 でも、本当に必要だったのは違ったのだ。


 自分を守ることだった。


 アルバムを閉じる。


 窓の外では夕焼けが広がっていた。


 赤く染まる庭を見ながら、静子はふと気づく。


 もう、和也のことを考える時間が減っている。


 以前は一日中、夫の機嫌ばかり気にしていたのに。


 今は庭の花の方が大事だった。


 夕飯の献立の方が大事だった。


 明日どこへ散歩に行こうか、そんなことを考えていた。


 静子は小さく笑う。


「こんな日が来るなんてね」


 夜。


 静子は台所の明かりを消し、玄関へ向かった。


 廊下は静かだった。


 床板を踏む自分の足音だけが響く。


 玄関には、新しい鍵がある。


 銀色に光る、小さな鍵。


 静子はそれを手に取った。


 冷たい感触。


 でも嫌な冷たさではない。


 静子はゆっくり扉を開け、外を見た。


 夜風がそっと頬を撫でる。


 遠くで虫が鳴いていた。


 静かな夜だった。


 誰も怒鳴らない。


 誰も帰ってこない。


 でも寂しくはなかった。


 むしろ、ようやく本当に自分の家になった気がした。


 静子は扉を閉める。


 そして新しい鍵を差し込んだ。


 ゆっくり回す。


 カチリ。


 小さな音が、静かな玄関に響いた。


 その瞬間、静子は胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。


 三十五年間。


 長かった。


 我慢して。


 怯えて。


 飲み込んで。


 自分を後回しにして。


 ずっと生きてきた。


 けれど、もう終わった。


 静子はそっと鍵に触れる。


 この音は、ただ家を閉める音ではない。


 人生を取り戻した音だった。


 静子は小さく微笑む。


 そして静かな家の奥へ、ゆっくり歩いていった。



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