エピローグ わたしはわたしを楽しむ
エピローグ わたしはわたしを楽しむ
朝の空気に、少しだけ秋の匂いが混じっていた。
窓を開けると、ひんやりした風がカーテンを揺らす。庭の金木犀が淡く香り、遠くで小学生たちの笑い声が聞こえてきた。
静子は鏡の前に立っていた。
薄いグレーのタックワイドパンツ。
白い柔らかなブラウス。
鏡の中の自分を、静子は少し照れくさそうに見つめる。
「……変じゃないかしら」
誰に聞くでもなく呟く。
パンツスタイルなんて、ほとんど履いたことがなかった。
和也が嫌っていたからだ。
『女はスカート履いとけ』
昔、そう言われた。
だから静子は長い間、“似合うかどうか”ではなく、“夫が嫌がらないか”で服を選んできた。
地味な色。
目立たない形。
無難な服。
そうしているうちに、自分が何を着たかったのかすら分からなくなっていた。
でも昨日、駅前のショッピングモールでそのパンツを見た瞬間、静子は足を止めた。
マネキンが履いていたグレーのタックワイドパンツ。
柔らかそうな生地。
すとんと落ちる綺麗な形。
若い店員が笑顔で言った。
「すごくお似合いになると思いますよ」
静子は慌てた。
「いえ、わたしには……」
「絶対素敵です」
押し切られるように試着室へ入った。
カーテンを閉める。
恐る恐る履いてみる。
すると鏡の中に、“いつもの主婦”ではない自分がいた。
足が少し長く見えた。
姿勢まで違って見えた。
静子は思わず鏡に近づく。
「……あら」
胸の奥が、少しだけ弾んだ。
その感覚が嬉しかった。
今日は、そのパンツを履いて美容室へ行く日だった。
静子は小さなバッグを持ち、玄関へ向かう。
新しい鍵を手に取る。
カチャリ。
静かな音。
その音を聞くたび、静子は深く息が吸えるようになった。
外へ出ると、空は高く晴れていた。
駅前の美容室は、ガラス張りの明るい店だった。
若い女性スタッフたちの笑い声と、ドライヤーの音が混ざっている。
「いらっしゃいませ」
受付の女性が笑顔を向けた。
「ご予約の高瀬様ですね」
「はい」
静子は少し緊張していた。
こういう店は苦手だった。
昔、和也に言われたことがある。
『そんな金かけてどうすんだ』
だから美容室も、近所の安い店ばかり行っていた。
髪を切るだけ。
整えるだけ。
おしゃれなんて、自分には関係ないと思っていた。
「こちらどうぞ」
案内された席へ座る。
大きな鏡の前。
明るい照明。
静子は少し背筋を伸ばした。
若い美容師の女性が微笑む。
「今日はどうされますか?」
「ええと……」
静子は鏡の中の自分を見る。
白髪交じりの髪。
少し疲れて見える顔。
でも以前より、表情は柔らかい気がした。
「少し、変えてみたくて」
美容師が優しく頷く。
「いいですね」
「変じゃない程度に」
「大丈夫です。絶対素敵になりますよ」
その言葉に、静子は少し笑った。
髪を洗われる。
温かいお湯が頭皮を流れていく感覚が気持ちいい。
「力加減、大丈夫ですか?」
「はい……気持ちいいです」
静子は目を閉じた。
ふわりとシャンプーの香りが広がる。
昔は、自分のためにお金や時間を使うことに罪悪感があった。
夫が優先。
家族が優先。
自分は後回し。
それが当たり前だった。
でも今は違う。
鏡の前へ戻ると、美容師が髪を整え始めた。
ハサミの軽やかな音が響く。
「お似合いですね、そのパンツ」
静子は少し驚いた。
「あら、分かります?」
「すごく素敵です」
静子は照れくさそうに笑う。
「初めてなんです、こういうの」
「えっ、そうなんですか?」
「ずっと地味な服ばかりで」
「もったいない」
美容師は鏡越しに笑った。
「高瀬さん、姿勢綺麗だから絶対似合いますよ」
その言葉に、静子の胸がじんわり温かくなる。
誰かに“自分”を褒められたのは、いつぶりだろう。
妻としてでもなく。
母としてでもなく。
ただ、“静子”として。
美容室を出る頃には、陽が少し傾いていた。
風が髪を軽く揺らす。
静子は駅前のガラスに映った自分を見て、足を止めた。
髪が少し軽くなっている。
顔色も明るい。
グレーのパンツも、ちゃんと似合っていた。
「……悪くないわね」
思わず笑う。
昔の自分なら、こんな風に思えなかった。
誰かの許可が必要だった。
誰かの機嫌を見ていた。
でも今は違う。
もう、誰にも決めさせない。
夕暮れの商店街を歩きながら、静子はふとショーウィンドウを見る。
赤いストール。
小さな革靴。
淡い色の口紅。
世界にはこんなにも、“好き”が溢れていたのかと思う。
静子は胸の奥で、小さく呟いた。
「わたしは、わたしを楽しむ」
その言葉は、静かだった。
でも確かだった。
家へ帰り、玄関の前に立つ。
空はもう薄暗い。
静子はバッグから新しい鍵を取り出した。
銀色の鍵は、街灯に照らされて小さく光る。
静子はそれをゆっくり差し込んだ。
カチリ。
静かな音が響く。
もう、この家に怒鳴り声はない。
怯える夜もない。
あるのは、自分のための時間だけだ。
静子は扉を開ける。
温かな空気が迎えてくれた。
静子は微笑みながら、静かな家の中へ入っていった。




