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第11話 空っぽのアパート

第11話 空っぽのアパート


地方異動を命じられた和也が新しいアパートの鍵を受け取ったのは、冷たい雨の降る午後だった。駅から十五分。古い二階建ての建物は、外壁の白が灰色にくすみ、階段の鉄は赤茶けていた。濡れた革靴で二階へ上がるたび、ぎし、ぎし、と頼りない音がした。


部屋のドアを開けた瞬間、湿った畳と古い木の匂いが鼻についた。六畳一間。小さな台所。風呂場の鏡には水垢が残り、窓のサッシには黒ずんだ埃が溜まっている。和也はネイビーのスーツの肩についた雨粒を払い、スーツケースを部屋の真ん中に置いた。


「……なんだよ、これ」


誰も返事をしない。家にいた頃なら、玄関を開ければ味噌汁の匂いがした。静子が台所から顔を出し、薄いグレーの割烹着姿で

「おかえりなさい」

と言った。風呂は沸いていて、白いシャツは糊の匂いがした。冷蔵庫には麦茶があり、食卓には焼き魚と煮物が並んでいた。


だが今、目の前にあるのは、コンビニで買った冷たい弁当と、しなびたサラダだけだった。


和也は弁当の透明な蓋を乱暴に開けた。揚げ物の油の匂いが鼻に重く残る。白飯は固く、箸でつつくとぽろぽろ崩れた。


「静子の飯のほうが、まだましだったな」


口に出してから、和也は不機嫌そうに眉をひそめた。まるで自分が負けを認めたようで腹が立った。


翌朝、和也は洗面所の前で固まった。昨日脱いだワイシャツは椅子の背にかけたまま、襟元に黄ばみが浮いている。洗濯機に放り込めばいいのだろうが、洗剤をどれだけ入れればいいのか分からない。柔軟剤と漂白剤の違いも曖昧だった。


「こんなもの、女がやることだろ……」


そう吐き捨てたものの、部屋には女などいない。美咲もいない。静子もいない。


仕方なく、和也はしわの残ったシャツに袖を通した。湿った布が肌に貼りつき、かすかに汗の匂いがした。鏡の中の自分は、以前よりずっと老けて見えた。髪は乱れ、顎には剃り残しがある。ネクタイだけは高級品だったが、結び目はどこか曲がっていた。


出社しても、居心地は悪かった。地方支社の空気は静かだったが、その静けさが余計に刺さった。若い社員たちは表面上は丁寧に接したが、目の奥には距離があった。


昼休み、社員食堂で和也が一人カレーを食べていると、隣の席の男たちの声が耳に入った。


「本社から来た人、なんか訳ありらしいよ」


「奥さんと揉めたんだって?」


「愛人がどうとか聞いたけど」


和也はスプーンを置いた。カレーの匂いが急に気持ち悪くなる。胸の奥がむかむかした。


「くだらん噂をするな」


思わず低い声で言うと、男たちは慌てて黙った。だがその沈黙こそが、和也には耐えがたかった。以前なら、自分が一言言えば空気は変わった。部下は頭を下げ、周囲は気を遣った。だが今の和也の言葉には、誰も本気で怯えていない。ただ面倒な男を見る目で、静かに避けられているだけだった。


夜、アパートに戻ると、部屋は朝のままだった。脱ぎ捨てた靴下。流しに置いたままの弁当容器。乾いた味噌汁の汁が茶色くこびりついたカップ。窓を開けると、雨上がりの冷たい空気が入り、遠くで電車の音がした。


和也はベッド代わりの薄い布団に腰を下ろした。腹は減っているのに、何を食べたいのか分からない。冷蔵庫を開けても、缶ビールと卵と賞味期限の切れた豆腐しかなかった。


「……俺、何もできないのか」


その言葉は、思ったより小さく部屋に落ちた。壁の向こうで誰かが咳をした。自分の惨めさまで聞かれた気がして、和也は唇を噛んだ。


その頃、静子は朝の庭に水をやっていた。


淡いベージュのカーディガンに、白いブラウス。紺のロングスカートは風にやわらかく揺れている。足元の鉢には、紫のビオラと白いパンジーが咲いていた。土に水が染み込む匂いが立ち上り、朝日が葉の先の雫をきらりと光らせた。


静子は深く息を吸った。家の中からは、炊きたてのご飯の甘い匂いがする。今朝の食事は、焼いた鮭と小松菜のおひたし、豆腐の味噌汁。それから、自分のためだけに漬けた小さな梅干し。


誰かの機嫌をうかがって味を変える必要はない。急いで食卓を整える必要もない。新聞を乱暴にめくられる音も、味噌汁が熱いと文句を言われる声もない。


静子はじょうろを置き、縁側に腰かけた。湯呑みから立つほうじ茶の香ばしい匂いが、胸の奥までほどけていく。


そこへ、家の電話が鳴った。


静子は一度だけ視線を向けた。表示された番号には見覚えがあった。和也の新しい携帯番号だった。


呼び出し音が、静かな部屋に響く。


静子は立ち上がらなかった。


やがて音は切れた。しばらくして、また鳴った。今度は少し長い。まるで相手の苛立ちが、そのまま音になったようだった。


静子は湯呑みを両手で包み、庭を見つめた。


「もう、出なくていいのよね」


誰に言うでもなく呟いた声は、驚くほど穏やかだった。


三度目の着信が鳴った時、静子はゆっくり立ち上がった。電話機の前に行き、説明書を開く。小さな文字を指でたどりながら、着信拒否の設定をした。ボタンを押すたび、ぴ、ぴ、と乾いた音がする。


最後に登録完了の表示が出た。


静子は少しだけ笑った。


その夜、和也は何度も電話をかけた。だが聞こえるのは、無機質な案内音だけだった。


「おかけになった電話は、お受けできません」


和也はスマホを握りしめた。


「ふざけるなよ……静子。俺だぞ」


返事はない。怒鳴る相手もいない。謝る相手もいない。すがる相手さえ、もういない。


薄い壁の向こうから、隣人の夕食の匂いが漂ってきた。焼き魚と味噌汁の匂いだった。和也の腹が情けなく鳴る。テーブルの上には、冷めたコンビニ弁当が置かれている。


和也はそれを見下ろし、初めて目をそらした。


その頃、静子は明日の朝食の下ごしらえを終え、台所の明かりを消した。白いカーテンの向こうで、夜風が庭の花を揺らしている。


玄関の鍵を確かめると、カチリと小さな音がした。


静子はその音を聞きながら、静かに微笑んだ。


「おやすみなさい」


それは誰かに尽くすためではなく、自分自身に向けた、初めての優しい挨拶だった。




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