表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/20

第12話 35年分の沈黙

第12話 35年分の沈黙


三月の終わりだった。朝から薄い雲が空を覆っていたが、昼を過ぎる頃には陽が差しはじめ、静子の家の庭にも柔らかな光が落ちていた。縁側のそばに植えた沈丁花が甘い香りを漂わせ、風が吹くたび、白いレースのカーテンがゆっくり揺れる。


静子は台所で卵焼きを切っていた。昼食の残りを小さな角皿へ並べ、ほうれん草の胡麻和えを添える。炊き立てのご飯の湯気がふわりと立ちのぼり、味噌汁には豆腐と三つ葉が浮いていた。


以前なら、こんな時間にゆっくり食事などできなかった。夫の帰宅時間を気にし、電話の音に身構え、機嫌を損ねないよう献立まで考えていた。


だが今は違う。


静かな家だった。


テレビもつけていないのに、不思議と寂しくはない。時計の針の音と、外で鳴く小鳥の声だけが穏やかに耳へ届く。


その時、玄関のチャイムが鳴った。


静子はエプロンで手を拭き、廊下へ向かった。扉を開けると、春風と一緒に懐かしい声が飛び込んでくる。


「静子!」


「百合子さん……」


立っていたのは高校時代からの友人、百合子だった。明るいベージュのトレンチコートに、薄い水色のストールを巻いている。肩までの髪は少し白いものが混じっていたが、大きな目は昔のままだった。


「急に来てごめんね。近くまで来たから」


「いいえ、どうぞ入って」


百合子は家へ上がるなり、目を丸くした。


「なんだか雰囲気変わったわねえ」


「そう?」


「前より明るい」


静子は少しだけ笑った。


居間へ通すと、百合子はソファへ腰を下ろした。静子は急須にお茶を淹れる。煎茶の青い香りがふわりと広がった。


「お昼まだだったら、一緒に食べる?」


「え、いいの?」


「残り物だけど」


静子は卵焼きと焼き鮭を小皿へ分け、炊き立てのご飯をよそった。百合子は

「わあ、おいしそう」

と嬉しそうに箸を取る。


「静子の料理、昔から好きだったのよねえ」


「ありがとう」


二人で向かい合って食事を始める。湯気の立つ味噌汁をすすりながら、百合子はちらちらと静子を見ていた。


やがて、箸を置いて言う。


「……本当に離婚したの?」


静子は静かにうなずいた。


百合子はため息を漏らした。


「信じられない。あの静子がねえ」


「自分でも少し不思議よ」


「でもあなた、ずっと我慢してたじゃない」


その瞬間、静子はふっと目を細めた。


窓の外では風が庭木を揺らし、葉擦れの音がさわさわと響いている。


「我慢じゃないの」


静子は穏やかに言った。


「見ていただけ」


百合子は首を傾げた。


「見てた?」


「ええ。ずっと」


静子は湯呑みを両手で包む。指先にじんわり熱が広がる。


「和也さんね、外では優しい人だったでしょう?」


百合子が苦笑する。


「そうそう。“妻を大事にしてます”って顔してた」


静子は静かに頷いた。


「でも家では違ったの」


その声には怒りがなかった。長い時間をかけて沈殿した静けさだけがあった。


「機嫌が悪いと怒鳴るし、気に入らないと黙るし、自分が失敗しても人のせいにする人だった」


百合子は眉を寄せた。


「そんなの、知らなかった」


「言わなかったもの」


「どうして?」


静子は少し考え、困ったように笑った。


「言ったところで、誰も信じないと思ったのよ」


その言葉に、百合子は黙り込んだ。


和也は外面が良かった。近所でも評判の“しっかりした夫”だったし、冠婚葬祭では率先して動く。人前では静子に優しい言葉もかけた。


だが家へ戻れば違った。


食卓に並んだ料理を見て、

「また煮物か」

とため息をつく。


シャツにアイロンの線が少しずれるだけで、

「こんなこともできないのか」

と吐き捨てる。


静子は何度も、胸の奥で小さな何かが壊れる音を聞いてきた。


「昔ね、百合子さんたち夫婦と旅行したでしょう?」


「ああ、熱海の?」


「あの時、和也さん、すごく優しかったでしょう?」


「うん。荷物持ってくれたり、写真撮ったり」


静子はふっと笑う。


「あの日ね、旅館の部屋に戻った途端、“余計なこと喋るな”って怒鳴られたの」


百合子の顔が固まった。


「え……」


「私、びっくりしたわ。さっきまで笑ってた人が、急に別人みたいになったから」


静子は畳へ視線を落とした。


「でもね、その時思ったの。ああ、この人は“演じてる”んだって」


部屋の空気が静かに沈む。


遠くで車の走る音がした。


「人ってね、最後は本性に戻るのよ」


静子はそう呟いた。


「若い頃は隠せるの。でも年を取ると、隠す力がなくなる」


百合子は唇を噛んだ。


「つらかったでしょう」


「……どうかしら」


静子は少し笑った。


「たぶん、長すぎたのね。つらいって感覚も薄れてた」


その言葉に百合子の目が潤む。


「もっと早く言ってよ」


「ごめんなさいね」


「謝らないでよ……」


百合子は鼻をすすった。


「でも、今のあなた見てると安心する。前よりずっと自然な顔してる」


静子は少し驚いたように目を瞬いた。


「そう?」


「うん。昔はいつも緊張してたもの」


その瞬間、静子は思い出した。


夕方六時になると、車のエンジン音に耳を澄ませていた日々。玄関が開く音だけで、今日は機嫌がいいか悪いか分かった。冷蔵庫を閉める音、ネクタイを外す仕草、新聞を置く強さ。


静子はずっと、夫の感情の天気予報士だった。


だが今は違う。


誰の顔色も見なくていい。


百合子が帰る頃には、外は夕暮れになっていた。西日が廊下を赤く染め、庭のパンジーが風に揺れている。


玄関で百合子は振り返った。


「また来るね」


「ええ。今度はゆっくり」


扉が閉まり、家の中に静けさが戻る。


静子はしばらく玄関に立っていたが、やがて押し入れの前へ歩いた。


襖を開ける。


奥に、小さな桐箱が置いてある。


静子はそれを両手で引き寄せた。蓋を開けると、古びた大学ノートが何冊も重なっていた。角は擦れ、紙は少し茶色く変色している。


一冊を開く。


整った字が並んでいた。


“五月十四日。帰宅午前一時。口紅の跡あり”


“八月二日。生活費不足。理由説明なし”


“十一月九日。“黙ってればいい”と言われる”


静子は静かにページをめくる。


怒りも泣き言も書いていない。ただ事実だけ。


まるで長い観察記録だった。


窓の外で風が吹き、庭の花が揺れた。


静子は指先で古い文字をなぞり、小さく呟く。


「ちゃんと、見ていたのよ」


その時、居間の電話が鳴った。


静子は顔を上げる。


呼び出し音が、静かな家へ何度も響く。


けれど静子は立ち上がらなかった。


ただ、次の日記帳へ静かに手を伸ばした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ