第13話 日記の中の証拠
第13話 日記の中の証拠
雨の降る朝だった。
細かな雨粒が窓ガラスを静かに叩き、空は灰色に沈んでいる。静子は居間のテーブルに座り、白い湯気の立つコーヒーを両手で包んでいた。深煎りの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
薄いクリーム色のニットに、紺色のロングスカート。髪は後ろでゆるく束ねている。誰に見せるためでもない、静かな身支度だった。
テーブルの上には、古い大学ノートが何冊も積まれている。
昨夜、押し入れの奥から取り出したものだ。
静子は一冊を開いた。
ページの端は茶色く変色し、紙には長い年月の匂いが染み込んでいる。インクは少し掠れていたが、文字はきちんと揃っていた。
“六月三日 深夜二時帰宅”
“シャツに甘い香水の匂い”
“カード利用額、通常より七万円多い”
そこには感情がなかった。
悲しいも、悔しいも、腹立たしいもない。
ただ、事実だけ。
静子は静かにページをめくる。
“休日出勤と言いながらスーツが煙草臭くない”
“ボーナス月、現金不足”
“女性名義のメモあり”
ひとつひとつは小さな違和感だった。
だが、積み重なると、逃げ道のない現実になる。
雨音を聞きながら、静子は小さく息を吐いた。
「あの頃はね……必死だったのよ」
誰に言うでもない呟きだった。
忘れないため。
自分をごまかさないため。
何より、“気のせい”にされないため。
和也はよく言った。
「お前の考えすぎだ」
「被害妄想だろ」
「女って面倒くさいな」
そのたびに、静子は自分の感覚を疑いそうになった。
だから書いた。
起きたことを。
見たものを。
聞いた言葉を。
事実だけを。
午前十時。
静子はベージュのコートを羽織り、ノートをバッグへ入れた。革のバッグは長年使っているもので、持ち手には小さな擦れがある。
外へ出ると、空気は冷たかった。濡れたアスファルトが鈍く光り、傘を打つ雨音が一定のリズムを刻む。
駅前の法律事務所は、古いビルの三階にあった。
受付の女性に案内され、小さな応接室へ入る。室内にはコーヒーと紙の匂いが混じっていた。
しばらくして、担当弁護士の井上が入ってくる。四十代半ばほどの落ち着いた男性で、銀縁眼鏡の奥の目は穏やかだった。
「本日は追加資料ですね」
「はい」
静子はバッグから大学ノートを取り出した。
井上は最初、少し不思議そうな顔をした。だがページを開いた瞬間、表情が変わる。
静かな沈黙。
ページをめくる音だけが響く。
やがて井上は息を吐いた。
「……これは驚きました」
静子は黙っていた。
「ここまで整理されている方は珍しいです」
井上の指が記録をなぞる。
「日付、帰宅時間、支出履歴、会話内容まで……非常に正確です」
静子は小さく微笑んだ。
「忘れないためです」
その声は静かだった。
けれど、その静けさには長い年月が積もっていた。
井上は慎重にページを閉じる。
「これだけ残していれば、相手側が言い逃れするのは難しいでしょう」
「そうですか」
「正直、ここまで冷静に準備されているとは思いませんでした」
静子は少し考えてから言った。
「準備しないと、生き残れない気がしたんです」
井上は何も言わなかった。
ただ深く頷いた。
その頃、和也は地方支社のデスクに座っていた。
蛍光灯の白い光が顔色を悪く見せる。
以前よりスーツがくたびれていた。ネイビーのジャケットには細かな皺が入り、ワイシャツの襟元は薄く黄ばんでいる。髭の剃り残しもあった。
隣の席から、ひそひそ声が聞こえる。
「本社で問題起こしたらしいよ」
「愛人だって」
「奥さんに捨てられたとか」
笑いを堪えるような声。
和也はキーボードを打つ手を止めた。
胸の奥がざらつく。
以前なら、こんな陰口を叩かせなかった。睨めば皆黙った。だが今は違う。
誰も本気で恐れていない。
ただ、面倒な男として距離を置いているだけだった。
昼休みになっても、誰も和也を誘わない。
社員食堂で一人、カツ丼を食べる。
油の匂いが重い。
味がほとんど分からなかった。
ふと顔を上げると、向こうの席で若い社員たちが笑っていた。
「うちの奥さん怖くてさー」
「でも家事全部やってくれるから助かるわ」
その言葉が胸に刺さる。
和也は箸を止めた。
静子の顔が浮かぶ。
朝早く起きて作っていた弁当。
冬の寒い朝、黙ってアイロンをかけていた背中。
熱を出した時、枕元へ置かれていたスポーツドリンク。
当たり前だと思っていた。
いや、“して当然”だと思っていた。
和也は舌打ちした。
「……今さらかよ」
自分で呟いた声が、やけに空しかった。
午後。
デスクへ戻ると、一通の封筒が置かれていた。
白い封筒。
差出人には弁護士事務所の名前。
和也の喉がひくりと動く。
嫌な汗が背中を伝った。
震える指で封を切る。
中には追加請求書類が入っていた。
不貞行為に伴う慰謝料請求。
婚姻費用未払い分。
不適切な共有財産使用に関する記録。
数字を見た瞬間、和也の顔色が変わる。
「……なんだよ、これ」
思わず声が漏れた。
隣の社員がちらりと見る。
和也は慌てて書類を伏せた。
だがもう遅かった。
視線が痛い。
息が苦しい。
書類の文字が滲んで見えた。
その頃、静子は法律事務所を出て、駅前の小さな喫茶店へ入っていた。
木目のテーブル。
静かなジャズ。
焼きたてのアップルパイの甘い香り。
窓際の席へ座り、紅茶を一口飲む。
温かな液体が喉を通り、肩の力が少し抜けた。
バッグの中には、長年書き続けた日記帳が入っている。
静子は窓の外を見た。
雨は少し弱くなっていた。
灰色の空の向こうに、わずかに光が見える。
静子は小さく目を細める。
「もう、誤魔化さなくていいのね」
その声は、誰にも聞こえなかった。
けれど静子自身だけは、確かに聞いていた。




