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第14話 初めての一人旅

第14話 初めての一人旅


旅行鞄を開けながら、静子は少しだけ緊張していた。


押し入れの奥から出した小さなキャリーケースは、ほとんど新品のままだ。淡い茶色の布地にはうっすら防虫剤の匂いが残っている。


静子は畳の上へ服を並べた。


薄いラベンダー色のカーディガン。

白いブラウス。

柔らかなベージュのワイドパンツ。

夜用に買った、淡い花柄の寝間着。


鏡の前で合わせてみる。


「……変じゃないかしら」


誰も答えない。


だが、その“誰もいない”ことが、今の静子には少し嬉しかった。


昔、旅行の話をすると、和也は決まって眉をしかめた。


「無駄遣いするな」


「家で寝れば同じだろ」


「女はすぐ雰囲気に金を払う」


結局、一度も一人で旅行などしたことがなかった。


いや、“してはいけない”と思い込んでいた。


けれど先日、駅前の旅行会社の前を通った時、ふと海の写真が目に入ったのだ。


青い海。

白い旅館。

夕暮れの露天風呂。


その瞬間、胸の奥で小さな何かが動いた。


行ってみたい。


その感情を、静子はもう押し殺したくなかった。


出発の朝、空はよく晴れていた。


静子は薄いクリーム色のニットに、紺色のロングスカートを合わせた。耳元には小さなパールのイヤリングをつける。昔、百貨店で自分のお金で買ったものだ。和也は一度も気づかなかった。


駅へ向かう道には沈丁花の香りが漂っていた。


改札を抜ける時、静子は少しそわそわした。


「本当に行くのね、私」


誰に言うでもなく呟く。


特急列車の窓際に座ると、車内にはコーヒーの香りと静かな話し声が満ちていた。向かいの席では若い夫婦が観光雑誌を広げている。


静子は膝の上へ小さなバッグを置き、窓の外を見た。


街並みが流れていく。


住宅地。

畑。

川沿いの桜。


陽の光を受けた水面がきらきら光っていた。


静子はふと、胸の奥が軽くなるのを感じた。


誰にも急かされていない。


「まだ着かないのか」

と不機嫌な声を聞くこともない。


車窓を眺めながら、静子は駅で買ったサンドイッチを開いた。卵の甘い匂いがする。紙コップの温かい紅茶をひと口飲むと、ほっと肩の力が抜けた。


旅館へ着いたのは午後三時過ぎだった。


海沿いの小さな温泉宿だった。


玄関には白い暖簾が揺れ、木造の廊下には畳と檜の香りが漂っている。仲居の女性が笑顔で迎えた。


「お一人様ですね。ようこそお越しくださいました」


その言葉に、静子は少しだけ照れた。


“お一人様”。


今まで、自分がそう呼ばれることに慣れていなかった。


部屋へ通される。


障子を開けた瞬間、静子は息を呑んだ。


窓の向こうに、海が広がっていた。


午後の陽を受けた水面が銀色に揺れている。遠くでカモメの鳴き声がした。


静子はゆっくり窓辺へ近づいた。


潮の匂い。


波の音。


頬へ触れる春の風。


静子は思わず笑っていた。


「きれい……」


その声は、少女のようだった。


温泉へ入ると、湯気が白く立ちこめていた。露天風呂の向こうには海が見える。


静子はそっと湯へ肩まで沈む。


「あったかい……」


思わず目を閉じた。


今まで、風呂は“家事”だった。家族のあとに入り、掃除をし、追い焚きを気にする。


だが今日は違う。


誰のためでもない。


自分が気持ちよくなるためだけの時間だった。


夕食は部屋食だった。


朱塗りのお盆に並ぶ料理は、まるで絵のように美しかった。


桜鯛のお造り。

筍の炊き合わせ。

山菜の天ぷら。

小さな土鍋で炊かれた鯛めし。


湯気と一緒に出汁の香りが立ち上る。


仲居が微笑む。


「ごゆっくりどうぞ」


静子は箸を取り、ひと口食べた。


「……おいしい」


その瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。


和也と食事をしていた頃は、味など分からなかった。遅いだの冷めているだの言われないよう気を張るばかりで、自分が食べる頃には料理は冷えていた。


けれど今日は違う。


好きな順番で食べられる。


急がなくていい。


文句を言う声もない。


静子はゆっくり鯛めしを口へ運んだ。ほろりと崩れる白身に、春の香りがした。


食後、静子は浴衣に着替えた。


薄い藤色の浴衣だった。帯を結びながら鏡を見ると、頬がほんのり赤い。


窓を開ける。


夜の海から冷たい風が吹き込む。


遠くで波の音が続いていた。


静子は座椅子へ腰を下ろし、ぼんやり海を眺める。


すると、ふいに涙が出そうになった。


悲しいわけではない。


苦しいわけでもない。


ただ、長い間忘れていた感覚が胸へ戻ってきたのだ。


自由だった。


こんなにも静かなものだったのかと思うほど。


静子は小さく息を吐いた。


「自由って、静かなのね」


その言葉は、夜の海へ静かに溶けていった。


眠る前、静子はふと鏡台の前で足を止めた。


部屋に置かれていた使い捨てカメラを手に取る。


昔は写真が嫌いだった。


和也が撮る写真の中で、自分はいつも“妻役”の顔をしていたから。


だが今日は違う。


静子は窓辺へ立った。


背後には海。


柔らかな照明。


浴衣姿の自分。


少し迷ってから、カメラを構える。


カシャッ。


乾いた音が、小さく部屋に響いた。


撮れた写真を見ることはまだできない。


それでも静子には分かっていた。


きっとそこには、今まで知らなかった自分の顔が写っている。


柔らかく笑う、自分自身の顔が。



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