第15話 壊れたプライド
第15話 壊れたプライド
四月の終わりだった。
地方支社の窓から見える空はどんより曇り、午後だというのに薄暗かった。蛍光灯の白い光がオフィスを冷たく照らし、コピー機の機械音だけがやけに大きく響いている。
和也はデスクに座ったまま、じっと通帳を見つめていた。
残高は心細い数字になっている。
慰謝料。
家賃。
生活費。
クレジットの支払い。
数字を見るたび、胃の奥が重く沈んだ。
ネイビーのスーツは以前よりくたびれていた。クリーニング代を惜しみ、自分で適当にアイロンをかけたせいで袖には妙な折り目がついている。シャツの襟元にはうっすら黄ばみが残り、革靴の先端も擦れて白くなっていた。
以前なら考えられない姿だった。
和也は小さく舌打ちし、立ち上がる。
廊下の向こうに、一人の男がいた。
元部下の高木だった。
本社時代、何度も怒鳴りつけた相手だ。営業成績が悪いと机を叩き、
「やる気がないなら辞めろ」
と言ったこともある。
高木は和也に気づき、わずかに表情を強張らせた。
「お疲れ様です」
「……高木、ちょっといいか」
会議室へ入る。
狭い部屋には古いエアコンの風が流れていた。
高木は落ち着かない様子で立っている。
和也は口を開きかけて、しばらく黙った。
言葉が出ない。
こんな頼み方をする日が来るとは思わなかった。
やがて低い声で言う。
「金……少し貸してくれないか」
高木の目が見開かれた。
和也は視線を逸らしたまま続ける。
「一時的でいい。来月には返す」
沈黙。
エアコンの風だけがかすかに鳴っている。
高木は困ったように眉を下げた。
「……すみません、無理です」
その返事は静かだった。
だが和也の胸には鋭く刺さった。
「お前……」
思わず睨みかける。
だが高木はもう昔のように怯えなかった。
「子どもの進学があるんです。余裕なくて」
そう言って頭を下げる。
和也は何も言えなかった。
本当は分かっていた。
高木だけじゃない。
今の自分に金を貸したい人間など、どこにもいない。
会議室を出る時、高木が小さく言った。
「……課長、体に気をつけてください」
その“気遣い”が、逆に惨めだった。
和也は無言で背を向けた。
デスクへ戻る途中、女子社員たちの声が聞こえる。
「なんか別人みたいじゃない?」
「前はすごい怖かったのにね」
「奥さんに逃げられたって本当かな」
笑いを含んだ小声。
和也は聞こえないふりをした。
いや、聞こえないふりしかできなかった。
夜。
アパートへ帰る頃には雨が降り始めていた。
古びた階段を上がるたび、ぎしぎしと音が鳴る。
ドアを開ける。
冷たい空気。
真っ暗な部屋。
誰も
「おかえり」
と言わない。
和也は乱暴にネクタイを外し、コンビニ袋をテーブルへ置いた。
半額シールの貼られた唐揚げ弁当。
値引きされたポテトサラダ。
安い缶ビール。
油の匂いが部屋に広がる。
テレビをつけても、笑い声がうるさいだけだった。
和也は無言で弁当を食べ始める。
冷えた唐揚げは脂っこく、米はぱさついていた。
「……まずい」
ぽつりと呟く。
その瞬間、静子の味噌汁を思い出した。
熱すぎず、ぬるすぎず。
ちゃんと出汁の匂いがした味噌汁。
焼き魚の塩加減。
炊き立ての白飯。
あれが“普通”だと思っていた。
いや、自分のために用意されて当然だと思っていた。
和也は箸を置いた。
急に部屋が静かになる。
冷蔵庫のモーター音だけが響く。
その静けさが耐え難かった。
和也は立ち上がり、壁を拳で殴った。
鈍い音。
古い壁紙が少しへこんだ。
「なんでこうなった……!」
怒鳴る。
だが返事をする者はいない。
以前なら、怒鳴れば静子が飛んできた。
「どうしたの」
と顔色を窺い、
「ごめんなさい」
と謝った。
けれど今は違う。
誰も怯えない。
誰も機嫌を取らない。
和也は荒く息を吐いた。
拳がじんじん痛む。
その痛みだけが、自分がまだここにいる証拠みたいだった。
ふと、テーブルの上に置かれた家族写真が目に入る。
数年前、温泉旅行で撮ったものだ。
和也は中央で腕を組み、偉そうに笑っている。隣には静子がいた。
薄いピンクのカーディガンを着て、控えめに笑っている。
その顔を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
「……なんであんな顔してたんだ」
写真の静子は、どこか緊張していた。
今になって分かる。
あれは“幸せな妻”の顔ではなかった。
和也は急に息苦しくなり、部屋を飛び出した。
雨は強くなっていた。
傘もささず歩く。
濡れたアスファルトが街灯に光り、車のタイヤが水を跳ねる。
和也は行き先も考えず電車へ乗った。
気づけば、昔の家の最寄り駅へ降りていた。
見慣れた道。
昔通ったコンビニ。
静子と歩いた商店街。
胸の奥が妙にざわつく。
家の前へ着く頃には、スーツは雨でぐっしょり濡れていた。
玄関の灯りがついている。
レースのカーテン越しに、柔らかな光が見えた。
和也は立ち尽くす。
中から笑い声が聞こえた気がした。
いや、違う。
テレビの音だ。
だが、その穏やかな空気が、自分の知らない家みたいに思えた。
和也は門柱へ手を置く。
冷たい雨水が指を伝った。
インターホンを押そうとして、手が止まる。
何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。
謝るのか。
戻りたいと言うのか。
それとも、ただ誰かに
「おかえり」
と言ってほしいだけなのか。
和也は唇を噛む。
玄関の向こうには、もう自分の居場所はない。
それだけが、雨より冷たく胸へ落ちてきた。




