第9話 決着
第9話 決着
朝の光が障子越しに柔らかく差し込んでいた。
静子はいつものように湯を沸かし、急須に茶葉を入れる。湯気と一緒に、ほのかな緑茶の香りが広がった。
静かな朝だった。
本当に静かだった。
怒鳴り声もない。
テレビの音量に苛立つ必要もない。
不機嫌そうな足音もない。
静子は湯呑みを両手で包み込み、小さく息を吐いた。
窓の外では雀が鳴いている。
春の終わりの風が庭木を揺らし、葉擦れの音がさらさらと耳に心地よかった。
その時、固定電話が鳴った。
「はい」
『高瀬さん、おはようございます』
島崎弁護士の声だった。
「おはようございます」
『本日、正式に離婚成立となりました』
静子は静かに目を閉じた。
長かった。
本当に長かった。
「……そうですか」
『慰謝料請求も認められました。財産分与についても、こちらにかなり有利な形でまとまっています』
「ありがとうございます」
『家の所有権もそのままです』
静子はゆっくり家の中を見回した。
古い柱。
少し色褪せた畳。
何度も磨いた台所。
この家には、自分の三十五年が染みついている。
楽しかったことも、苦しかったことも。
全部。
「高瀬さん?」
島崎が少し心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか」
「ええ」
静子は静かに笑った。
「やっと終わったんだなって」
電話を切ったあと、静子はしばらく動かなかった。
時計の音だけが響く。
カチ、カチ、カチ。
今までずっと、何かに追われるように生きてきた気がした。
夫の機嫌。
お金の不安。
将来への恐怖。
全部に気を張っていた。
けれど今、家の空気は驚くほど穏やかだった。
昼過ぎ。
静子は商店街へ出た。
八百屋の前には赤いトマトが並び、魚屋からは焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくる。
「あら静子さん」
近所の佐伯が声をかけてきた。
「こんにちは」
「最近、顔色いいじゃない」
静子は少し驚いた。
「そうですか?」
「うん。なんか軽くなった感じ」
佐伯は言いにくそうに声を潜める。
「……旦那さんのこと、大変だったわね」
商店街ではもう噂になっていた。
熟年離婚。
愛人。
慰謝料。
昔なら耐えられなかったかもしれない。
近所の目を恐れて、何もできなかったかもしれない。
でも今は違った。
「いいんです」
静子は穏やかに答える。
「もう終わりましたから」
帰宅した頃、西日が家を赤く染めていた。
玄関の鍵を開ける。
カチャリ。
その音を聞くたび、静子は少しだけ安心する。
もう勝手に怒鳴りながら入ってくる人はいない。
もう深夜に酔って帰ってくる人もいない。
静子は台所へ立ち、小鍋に出汁を入れた。
一人分の味噌汁。
一人分の焼き魚。
一人分のご飯。
昔は寂しいと思っていた。
一人分しか用意しない食卓を。
けれど今は違う。
静かな食卓は、どこか温かかった。
一方その頃。
和也は会社の会議室に呼び出されていた。
蛍光灯の白い光がやけに冷たい。
部長と人事課長が向かい側に座っている。
「高瀬さん」
人事課長が咳払いをした。
「今回の件ですが」
和也は黙ったまま俯いていた。
もう分かっている。
会社中に噂が広がっていることを。
若い社員たちが陰で笑っていることを。
役員たちが距離を取っていることを。
「地方支社への異動をお願いしたいと思います」
和也はゆっくり顔を上げた。
「……異動」
「役職も外れます」
その瞬間、和也の中で何かが崩れ落ちた。
終わった。
本当に。
家も失った。
女も失った。
会社での立場も失った。
残ったのは、小さな地方支社への辞令だけだった。
「……分かりました」
自分でも驚くほど小さな声だった。
夕方、和也は一人で駅前を歩いていた。
人混みの中を歩きながら、ふと立ち止まる。
ガラスに映った自分を見て、和也は目を逸らした。
老けていた。
ただの疲れた老人だった。
若い女に選ばれる男でもなければ、家庭を支える立派な夫でもない。
空っぽだった。
その頃、静子は縁側に座っていた。
夕焼けが庭を柔らかく染めている。
風が気持ちいい。
静子はゆっくりお茶を飲んだ。
温かい。
本当に久しぶりに、心から落ち着いていた。
「……やっと静かね」
ぽつりと呟く。
誰も答えない。
でも、それが心地よかった。
その時、風がふわりとカーテンを揺らした。
静子は目を細める。
これからどう生きるのか。
まだ分からない。
けれど少なくとも、もう誰かに怯えて暮らす必要はない。
好きな時間に起きて。
好きな物を食べて。
静かに生きていけばいい。
庭の紫陽花が夕日に濡れて光っていた。
静子はその景色を見つめながら、小さく息を吐く。
三十五年。
長かった。
でもようやく、自分の人生が始まる気がした。




