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第8話 戻れない家

第8話 戻れない家


 夜風が冷たかった。


 昼間まで降っていた雨のせいで、住宅街のアスファルトはまだ濡れている。街灯の光が水たまりに滲み、揺れるたびにぼんやりと色を変えた。


 和也は家の前に立っていた。


 見慣れた玄関。


 見慣れた門柱。


 三十五年暮らした家だった。


 なのに今は、他人の家のように遠い。


 和也は震える手でインターホンを押した。


 ピンポーン。


 乾いた電子音が夜に響く。


 返事はない。


 和也は唇を舐めた。


 喉がひどく乾いている。


「……静子」


 もう一度押す。


 ピンポーン。


 しばらくして、玄関の向こうで小さな足音がした。


 和也の胸が跳ねる。


「静子!」


 返事はない。


 だが気配はある。


 和也は思わず扉へ手をついた。


「頼む……話し合おう」


 静かな沈黙。


 そのあと、扉越しに静子の声が聞こえた。


「弁護士を通してください」


 和也は息を呑んだ。


 声が、少しも揺れていない。


「静子、頼むよ」


「お帰りください」


「俺、本当に困ってるんだ」


 和也の声はかすれていた。


 会社では完全に居場所を失っていた。


 女関係の噂は広がり、役員からも露骨に距離を置かれている。


 美咲にも追い出された。


『無理。もう限界』


 あの冷え切った目を思い出す。


 荷物を玄関へ放り出され、ドアを閉められた瞬間、和也は初めて理解した。


 自分にはもう、帰る場所がない。


「静子……」


 和也は扉に額を押しつけた。


 木の冷たさが皮膚に染みる。


「悪かった」


 声が震える。


「俺が悪かったから」


 返事はない。


 家の中は静まり返っている。


 だが確かに、静子はそこにいる。


「頼む……開けてくれ」


 和也は自分でも驚くほど弱い声を出していた。


 昔なら考えられなかった。


 自分が頭を下げるなんて。


 静子に頼るなんて。


 だがもう、意地を張る余裕すらなかった。


「静子」


 和也は必死に続ける。


「俺たち三十五年だぞ」


 風が吹き抜ける。


 庭木がざわりと揺れた。


「色々あったけど……ここまでやってきたじゃないか」


 返事はない。


「お前だって寂しいだろ?」


 その言葉を口にした瞬間、自分で空しさを感じた。


 静子は、寂しそうではなかった。


 最後に見た時も。


 鍵を替えた日も。


 あの女は静かだった。


 まるで、ずっと前から覚悟していたみたいに。


「なあ……」


 和也はゆっくり座り込んだ。


 濡れたコンクリートがスラックスを冷やす。


 惨めだった。


 六十八にもなって、家の前で座り込んでいる。


 しかも自分の妻に締め出されて。


 遠くで犬が吠えた。


 近所の窓に明かりがつく気配がする。


 見られている。


 和也は急に恥ずかしくなった。


 だが帰る場所がない。


「静子……頼む」


 その時、扉の向こうで静子が静かに言った。


「もう終わっています」


 和也は固まった。


「……え?」


「私の中では、もう終わっています」


 淡々とした声だった。


 怒りもない。


 恨みもない。


 だからこそ残酷だった。


「そんな……」


「あなたは、出ていくと言いました」


「それは……」


「若い女の人の方がいいと言いました」


 和也は言葉を失う。


 確かに言った。


 勝ち誇った気分だった。


 自分にはまだ価値があると思っていた。


 だが今の自分には、何もない。


「静子……一回だけでいい」


「嫌です」


「話だけ」


「弁護士を通してください」


「冷たすぎるだろ……!」


 思わず声を荒げる。


 だが次の瞬間、和也は自分で崩れ落ちた。


「……っ」


 喉の奥が詰まる。


 息が苦しい。


 視界が滲む。


「俺……どうしたらいいんだよ……」


 ぽつりと漏れた声は、情けないほど弱かった。


 和也は気づいてしまった。


 今まで自分は、“帰れる場所がある”前提で生きていたのだと。


 どれだけ偉そうにしても。


 どれだけ遊んでも。


 最後には静子が家を守っていると思っていた。


 食事が出てくる。


 風呂が沸いている。


 洗濯された服がある。


 それが永遠に続くと思っていた。


 だが違った。


 全部、静子がやっていたのだ。


 自分ではなかった。


「静子……」


 和也の目から涙が落ちた。


 ぽたり、と濡れた地面に染みる。


 自分でも信じられなかった。


 泣いている。


 しかも家の前で。


 みっともなく。


「頼むよ……」


 声が崩れる。


「一人にしないでくれ……」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 やがて静子が静かに言う。


「私は、ずっと一人でしたよ」


 和也は息を止めた。


「あなたが家にいても」


 その言葉は、刃物みたいに静かだった。


 和也は何も言えなかった。


 思い返せば、自分は家にいても何もしなかった。


 食事を食べ、文句を言い、テレビを見て寝るだけ。


 静子が何を考えているかなんて、一度も聞かなかった。


 聞く必要すら感じていなかった。


 妻とは、そこにいて当たり前の存在だったから。


「……静子」


 返事はなかった。


 その代わり、家の奥から微かにテレビの音が聞こえる。


 日常の音。


 自分がもう入れない場所の音だった。


「お願いだ……」


 和也は最後の力を振り絞るように言った。


「帰りたい」


 しばらくして。


 静子の声が、静かに返ってきた。


「ここは、あなたの帰る場所ではありません」


 その瞬間、和也の中で何かが完全に崩れた。


 ガチャン。


 内側の鍵が閉まる音がした。


 和也は顔を上げる。


 扉は、開かなかった。


 最後まで。



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